天神多久頭魂神社
【てんじんたくづだま/あめのかみたくずたまじんじゃ】
対馬には“天道信仰”という独自の信仰が存在する。おそらくその原初は太陽信仰であり、そこに母子二神の伝説や、神道・仏教の要素が加わり、現在のような一つのまとまった内容になったであろうと推測される。
現在ある“天道信仰”の中核をなす伝説は“天道(天童)法師”にまつわる話である。対馬の南部にある豆酘(つつ)という村に一人の娘があり、ある時、太陽の光を浴びて(一説では朝日に向かって用を足したとも)感精して生まれた神童が、のちの天道法師となるという話である。天道法師は仏門に入り、若くして奈良の都で修行を重ねて神通力を得て対馬に戻ったが、時の文武天皇が病に倒れた折に、対馬から飛行して奈良へ赴いて見事に病を治したという。この天道法師が、対馬独自の神である“多久頭魂神”であるとされている。
一方で、母神=神魂神(神産巣日神)・子神=多久頭魂神の母子二神として対馬で信仰されており、これは母神=神功皇后、子神=応神天皇という“八幡神”信仰との類似性や関連性が指摘されている。いずれにせよ、日本の神仏伝説を巧みに織り交ぜながらも、対馬独自のものとして長きにわたって信仰されてきている。
この多久頭魂神を祀る神社として対馬の北端部分に位置する佐護にあるのが、天神多久頭魂神社である。この神社には社殿がなく、そのそばにある天道山を遙拝する形で建てられている。境内の入口には鳥居と石積みの石塔があり、その奥まったところに、中に立ち入ることの出来ない階段状となった場所があり、その一番上のところに鏡が置かれている。これが神籬・磐境を設けた祭祀形態であることは間違いない。まさに原初的な祭祀の形をそのまま残した神社である。さらに言えば、鏡を祀ることで太陽信仰の場であることを示していると考えるのも容易である。
<用語解説>
◆天道法師
あくまで伝説上の人物であるが、天武天皇の御代(673-686)に対馬の豆酘に生まれたとされる(母親については後述)。太陽の子として超人的な能力を発揮して、9才で奈良へ仏門の修行に出る。その後対馬に戻るが、文武天皇の病に際して召し出され、法力で治癒に至る。その功により“宝野上人”の称号を得る。
おそらく天道信仰が神仏習合によって仏教と結びついた後に作られた内容であると推測できるが、天道法師の墓とされる八丁角(通称:オトロシドコロ)が今もなお禁足地として豆酘にある。
◆天道法師の母の出自
諸説あり、“豆酘に住む照日某の娘”である説、“不義密通の罪でうつぼ舟で豆酘に漂着した女院”である説が主たるものである。前者は朝日に向かって用を足した時に懐妊、後者は漂着した時には既に懐妊していたとされる。いずれにせよ、父親に当たる存在は“太陽”であり、これをもって天道法師は“日子”とみなされる。
この【日光感精神話】は北方アジアの建国神話に多く見られ、おそらく朝鮮半島を経て対馬にも伝播してきたものと考えられる。
アクセス:長崎県対馬市上県町佐護