無量寿寺 八橋
【むりょうじゅじ やつはし】
無量寿寺は慶雲元年(704年)に慶雲寺という名で建立されたのが始まりとされる。一時衰退したが、文化9年(1812年)に方巌和尚によって現在ある寺院となった。
無量寿寺にも、方巌和尚が造った庭園があるが、八橋町は古来より杜若(かきつばた)の名勝で知られる。とりわけ有名とされるのが、在原業平にちなむ逸話である。『伊勢物語』九段によると、東下りの最中に主人公(業平)は八橋の地やって来た。連れの者が、名物である“かきつばた”の文字を各句の頭に置いて歌を詠んで欲しいと頼んだ。そこで男は「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」という歌を詠む。これによって八橋は歌枕としても有名となった。
無量寿寺には業平ゆかりのものが多く残されている。本尊の聖観音像は業平の作と伝わっており、この本尊の両脇には業平本人の像、その両親の像が安置されている。また境内には業平竹やひともとすすきなど、業平ゆかりの縁結びの草木がも植えられている。
さらに境内には、古い宝篋印塔がある。これは東下りの業平を追って都からはるばるこの地にやって来た杜若姫の供養塔であるとされる。杜若姫は小野篁の娘とされ、業平に恋い焦がれて後を追ってきたがつれなくされ、悲しみの余りにこの地の池に身を投げて亡くなったという。
またこれらの八橋における業平の故事を秋元嵎夷が記した文章を刻んだ亀甲碑(八橋古碑)が境内にある。この碑に刻まれている文を誤らずに読みきることが出来ると、台座の亀が動き出すという伝説が残されている。
そしてこの八橋という地名であるが、細い川に橋板を稲妻のように繋ぎ並べてできた橋から採られたものであるが、その橋の成り立ちには次のような伝説がある。
仁明天皇の頃、この地がまだ野路という地名であった頃に、二人の幼子を抱えた若い寡婦があった。ある時、薪を拾おうと、蜘蛛の手のように枝分かれした川を渡った。すると幼子も後を追って付いて来る。危ないので帰るように言うまもなく、幼子は川の深みにはまりそのまま溺れて亡くなってしまった。いっぺんに子供を失った寡婦は生きる希望を失い尼となるが、やがて子が溺れた川に橋を架けることを思いつく。そして承応9年(842年)に、流木を繋ぎ合わせるようにして8つの川にそれぞれ橋が架けられた。その形から八橋という名が付けられ、それがそのまま地名となったのだという。
<用語解説>
◆方巌和尚
1759-1828。福岡藩の士分の生まれ。京都の妙心寺で修行し、その際に煎茶に傾倒する。江戸に出て“売茶翁”を名乗り、煎茶を売る。その後、八橋の地に定住し、在原寺や無量寿寺を再建する。八橋売茶翁とも呼ばれる。
◆在原業平
825-880。桓武天皇の孫にあたる。『伊勢物語』に登場する主人公は業平がモデルとされている。八橋で詠まれたとされる上の歌は『古今和歌集』にも撰せられている。
◆秋元嵎夷
1688-1752。儒学者。荻生徂徠の弟子で、三河岡崎藩に仕えた。亀甲碑に刻まれた文章は寛保2年(1742年)の作とされる。
アクセス:愛知県知立市八橋町