光心寺 八雲地蔵

【こうしんじ やくもじぞう】

ラフカディオ・ハーンは明治29年(1896年)から東京帝国大学の英文学講師となり、家族と共に東京に住まう。それとほぼ同時期に彼は日本に帰化して小泉八雲と名乗るようになる。環境が一変した八雲であるが、都会の生活は性格的にあまり合わなかったらしく、翌年の夏は避暑と称して長期間東京を離れる。泳ぎの好きな八雲が選んだのは海で、たまたま見つけたのが焼津の町であった。そしてそれ以降も、急死する年も含めて6度も家族らと長期滞在をしている。

焼津滞在中は、浜通りで魚屋を営んでいた山口乙吉宅の2階を借りていた。八雲は乙吉の裏表ない性格を「神様のような人」と評して大層気に入り、滞在中はよく行動を共にしたという。

明治35年(1902年)の夏のある日のこと。この年も避暑に来ていた八雲は、焼津の海岸沿いの防波堤の傍らで3体の地蔵を見つけた。以前から地蔵に愛着を持っていた八雲は、そのうちの1体の首が落ちてしまっているのを見て、非常に可哀想に思った。『新しい首を造って繋げ合わせて、元の姿に戻してあげよう』。そう思い付いた八雲は、早速近所の「石晴」という石屋に地蔵の首を注文した。そして一方で八雲は、東京で留守を預かる妻のセツに地蔵修繕の計画について手紙を送ったのである。

ところが意外なことに、妻の返事は“断固たる反対”であった。

八雲の修繕計画では、地蔵の顔を愛らしいものにすべく、乙吉の向かいに住んでいる善吉少年を地蔵のモデルにする。そして地蔵には自分の長男である一雄の名前を刻んで「一雄地蔵」と命名するというものであった。これを知ったセツ夫人は、日本の風習では地蔵は“死んだ子の供養のために建てるもの”であり、顔を特定の子に似せたり、地蔵に子の名をつけることが、いかにとんでもないことであるかを説明したのである。こうして八雲の計画は頓挫したのであった。

この地蔵は現在光心寺の境内に祀られている。上の逸話から「八雲地蔵」の通り名があるが、実際は“波除地蔵”あるいは“波切地蔵”と呼ばれるものであり、元は六地蔵として浜のそばに置かれていたものである。しかし昭和41年(1966年)に高潮によって倒され、再び首が落ちてしまったことから、光心寺へ移されている。

<用語解説>
◆光心寺
慶長11年(1604年)開創の浄土宗の寺院。小泉八雲存命の頃は焼津の浜にあり、山門が田中城搦手門を移築したものだった(明治初期に競売にて落札)。昭和10年(1935年)に波による浜の侵蝕が激しくなったため、現在地に移転した。

◆山口乙吉に関する逸話
水泳に適した焼津の海が気に入った八雲であるが、その後も続けて逗留した理由は乙吉の人柄であったとされる。実際毎回魚屋の2階を定宿として利用している。乙吉は八雲の作品にも度々登場しており、特に有名なエピソードとして“だるま”の話が残っている。この話から隣町の藤枝市内で作られる藤枝だるまは“乙吉だるま”と呼ばれるようになった。また乙吉の家は、現在愛知県犬山市にある明治村に移設、当時のまま保存されている。

アクセス:静岡県焼津市東小川