大六天・青石塔婆
【だいろくてん・あおいしとうば】
住宅が建ち並ぶ一画、家と家との間に赤い鳥居があり、狭い通路を奥へと入る。その突き当たり、住宅に四方を完全に囲まれた場所にあるのが大六天の祠である。おそらく近隣住民が清掃などのお世話をしているのが分かる、こざっぱりとした祠である。そしてその隣には大きな樫の木がそそり立ち、その根元には巨木に巻き込まれるように斜めになって立つ2基の板碑がある。
飯能市の文化財に指定されている板碑は、美しい青みがかった色をしており、銘などは判別できないが鎌倉時代の作であると推定されている。この板碑は、地元の伝説によると畠山重忠の墓とされており、その建立には不思議な話が残されている。
“板東武士の鑑”と謳われた畠山重忠は、武蔵国に居を構える鎌倉幕府成立時の有力御家人であり、武蔵武士団の中心人物として重きをなしていた。しかし武蔵国の統治を直接おこなうようになった北条氏によって謀反の疑いをでっち上げられ、元久2年(1205年)、わずか100騎あまりの手勢で鎌倉へ出頭する途中、二俣川(現・神奈川県横浜市旭区)で待ち構える約1万の兵を相手に最後まで戦い全員が討死した。待ち伏せに気付いた家臣が一旦居館に戻って兵を整えるべしと具申した時も、「引き返して兵を挙げれば、本当の謀反となる」として退け、小勢で堂々と大軍と渡り合ったとされる。
戦いの後も重忠の遺骸は二俣川に放置されていたが、家臣がこれを引き取り、車に乗せて居館のある秩父へと運んだ。しかしこの近くの坂(車返しの坂)に差し掛かったところ、突然車が動かなくなった。家臣は、おそらく主はこの地に葬ってほしいのだろうと考え、ここに遺骸を埋葬した。その後供養のために建てられたのが青石塔婆であるとされる。


<用語解説>
◆第六天神社
明治の神仏分離以前は、仏教における欲界の最高位にある他化自在天(第六天魔王)を祀る神社であった。東日本特に武蔵国を中心に関東地区に多くの社があったとされる。これは第六天魔王を称したとの逸話の残る織田信長と関係があり、武田氏滅亡後関東にも勢力を伸ばした信長を武田旧臣が中心となって崇敬の対象とした結果とも、信長の死後西国を押さえた豊臣秀吉が西日本の第六天社を破却した結果とも言われる。
明治時代以降は、他化自在天に代わって、天地開闢の際に出現した神世七代のうち、第六代に当たる面足尊・綾惶根尊の兄弟神を祭神とした。ただ多くの第六天社は合祀や廃社によって消失しており、この飯能の大六天は、現在も残されている数少ない第六天社の一つである。
◆畠山重忠
1164-1205。秩父氏の一族で、現・深谷市畠山を領したことから畠山姓となった。源頼朝の挙兵時には平氏方、後に頼朝に従う。平氏との戦いでは源義経の部将として参戦、数々の武勇の逸話を残す。また二心ない実直な態度の人格者として、生前から称賛されたとされる。
なお正式な墓所は、埼玉県深谷市の居館跡に造られた史跡公園内にある。また討死した二俣川付近(横浜市旭区)に葬られたともされ、現在も“六ツ塚”として残されている。
日本伝承大鑑:六ツ塚
アクセス:埼玉県飯能市飯能