村積山

【むらづみやま】

標高は250m程度の低山であるが、その均整の取れた形から“三河富士”と呼ばれる山である。現在は、村積山自然公園の名でハイキングコースとなっており、頂上まで約30分ほどの行程となっている。

頂上には村積神社があるが、その歴史は推古天皇の御代(593~628年)とされ、創建に関わったのは物部守屋の次男・真福とされる。また村積の山の別称である“花園山”は持統天皇の命名であると言われており、古来より信仰の対象など特別視された山であったことが分かる。

この神社の境内の一角に、玉垣で囲まれた2つの石がある。これが“毒石”と呼ばれる、かつて那須野で猛威を振るったとされる殺生石の破片であると伝えられている。

言い伝えによると、玄翁和尚が打ち砕いた殺生石の破片が飛んできて、村積山の山頂に落ちたとされる。ある時、近隣の猟師が山に入り、この石を壁にして鳥が死んでいるのを見つけた。さらに次の日に来てみると、兎が倒れている。この石に何か不思議があるのではと思った猟師がこの石に触れた途端に全身が痺れて倒れ、しばらく病に伏せったという。そして今なお「この石に触れると瘴気に当てられて病となる」と言い伝えられている。

しかし一方でこの石は室町時代に三河の守護職であった細川氏が“神石”として神社に大切に置いていたという記録も残されており、古来よりある磐座や塚の名残である可能性も否定できない。いずれにせよ「触れてはならない」理由を持った石であると考えるのが妥当であろう。

<用語解説>
◆物部真福(まさち)
生没年不明。父の守屋が蘇我氏によって滅ぼされた後、三河へ移り住んだとされる。この地に移り住んでから真福寺を建立、その守護神として村積山に神社を建てたとの伝説が残されている。また真福寺には「まさち長者」の伝承が残されている。

◆殺生石
那須野で退治された金毛九尾狐が化身したもの。近寄る小動物や人間を毒気によって殺す害をなしたとされる(実際は地面から噴出した硫化水素による中毒死)。最終的に至徳2年(1385年)に玄翁心昭が引導を渡し、打ち砕いた。なおこの破片は会津・越後・安芸・豊後のそれぞれ“高田”と名がつく地に飛んでいったとされ、現在でも殺生石が残されている地もある。しかしながらこの村積山周辺には“高田”の地はなく、むしろ“毒石”と呼ばれていた石に後付けで由来が伝えられたものと考えた方が良いかもしれない。

◆細川氏
足利家の支流。鎌倉時代に三河国細川郷(現・岡崎市)に土着し、この姓を名乗りだした。室町幕府では管領家として重きをなした。

アクセス:愛知県岡崎市奥山田町