鼠社/鼠の宮
【ねずみしゃ/ねずみのみや】
三井寺(園城寺)の頼豪阿闍梨は祈祷を能くする高僧であった。承保元年(1074年)、子のなかった白河天皇は「恩賞は望みのまま」と、皇子誕生の祈願を頼豪に命じた。早速頼豪は100日間の祈祷を行い、見事に中宮は懐妊。その年には無事に男児(敦文親王)が生まれた。
天皇は大層喜び、召し出して願いを聞く。すると頼豪「三井寺に戒壇建立を」と願い出る。この戒壇建立は三井寺の長年の悲願であるが、対立する比叡山延暦寺がことごとく反対して紛争の火種となっていた。再び大寺院同士の戦いが起こることを怖れた天皇は、頼豪のたっての願いを最終的に認めなかったのである。
約束を反故にされた頼豪は怒り狂い、寺に戻るとそのまま餓死して呪詛をおこなおうと、自分の寺坊に籠もって祈祷を始めた。その噂が天皇の耳に入ると、慌てて頼豪の交流のある大江匡房を召し出して説得に当たるように命じた。
匡房が面会しようとするが、頼豪はそれを拒否。
「天皇のお言葉に戯れ言はない。所望が叶わないのであれば、我が祈祷でお生まれになった皇子である。お取り申し上げて、魔道へ行くことにしよう」と言い放って追い返した。
匡房はやむなく戻り天皇に伝えるが、直後に頼豪は餓死してしまった。そして手を打つ間もなく皇子が病にかかってしまう。しかも皇子の枕元に白髪の老僧が錫杖を持って佇む姿を、多くの者が夢幻のように見たのである。さまざまな祈祷の甲斐もなく、やがて皇子は亡くなる。
嘆き悲しむ天皇は、これもまた祈祷を能くする延暦寺の良真僧正に相談した。すると良真は比叡山で100日の祈祷を行って、再び中宮が懐妊する。そして生まれた皇子が、後の堀河天皇である。
『平家物語』の“覚一本”に記載された頼豪阿闍梨の怨霊の話は以上のようであるが、この怨霊がさらに変化して大鼠の化け物になったという伝説も、かなり古くからある。
同じ『平家物語』の“延慶本”には、山門(延暦寺)があるから戒壇建立の宿願が叶わないとして、呪詛の対象を延暦寺に向け、大鼠(頼豪鼠)となって延暦寺の経典や仏像を食い荒らしたとしている。また『源平盛衰記』では、大鼠となるきっかけが堀河天皇の即位でありとしている。さらに『太平記』では、堀河天皇誕生の際、延暦寺の守りが鉄壁であったために呪詛が通じなかったため、“鉄の牙、石の身体の84000匹の鼠”に変化して延暦寺を襲ったとする。ここにおいて妖怪“鉄鼠”が完成したと考えられる。
この頼豪の攻撃にはさしもの延暦寺も大いに悩まされ、とうとう坂本に“ねずみのほくら(秀倉/宝蔵)”を建てて神として祀ったのである。これが日吉大社の境外末社の鼠社(祭神:大国主命)であるとされる。ただし日吉大社では、これは頼豪を祀るものではなく、干支の“子”を祀るものであるとの見解を示しており(『日吉社神道秘密記』による)、却って以前より頼豪の伝説が浸透している証左となっている。
さらに三井寺の境内にも“鼠の宮”と呼ばれる十八明神社がある。こちらは三井寺の土地や伽藍を守護する神々を祀ったものとされるが、大鼠の霊も祀り鎮めているとされ、社殿は延暦寺を向いている。
<用語解説>
◆頼豪
1004?-1084。天台宗の僧。承保元年に白河天皇の皇子誕生の祈願に成功、その賞として園城寺に戒壇建立を願い出るが却下されるところまで、ほぼ史実であるとみられる。しかし、その後この対応を怨み、絶食して果てたことは史実であるかはかなりあやしい。
◆三井寺と延暦寺の争い
密教の教えを天台宗の中心経典「法華経」と同等をみなす円仁(第3世天台座主:慈覚大師)派と密教の教えを上位とみなす円珍(第5世天台座主:智証大師)派との宗教的対立から、10世紀に円珍派が園城寺(三井寺)に移り、武力による抗争にまで発展する(戦国末までで、延暦寺による三井寺焼き討ちは大小50回ほどになるとも)。三井寺による“戒壇建立”の請願は何度か行われたが、その都度延暦寺の政治的圧力によって破談となっている。
◆白河天皇
1053-1129。第72代天皇。在位は1073-1087。後に院政を敷いたことでも知られる。
◆敦文親王
1074-1077。白河天皇の第一皇子。母親は中宮・賢子(藤原師実の養女)。幼くして病死しているが、生没年から分かる通り、頼豪の死の7年前に死去しているため、呪いが原因ではない。
◆大江匡房
1041-1111。後三条・白河・堀河と3代続けて東宮学士を務めるなど学識があり、また天皇親政の際の側近として活躍した。頼豪とは、師僧と檀那(檀家寺の住職)の関係であったとされる。
◆良真
1022-1096。後に第36世天台座主・大僧正となる。
◆堀河天皇
1079-1107。第73代天皇。母親は中宮・賢子。在位中は父の白河上皇が院政を行うが、成人した後は親政を積極的に行うなど、人品においても賢帝とされる。生来病弱であったとされる。
◆『平家物語』“覚一本”と“延慶本”
現在最も流布している『平家物語』は“覚一本”と呼ばれ、南北朝時代に琵琶法師の座(当道座)を確立した明石検校覚一(足利尊氏の従兄弟)が、内容の歪曲を防ぐために正本として書きまとめたものとされる。
一方の“延慶本”は、延慶2年(1309年)に写本されている最古の読本テキストとされており、成立時の形に最も近いものであると考えられている。
◆日吉大社
全国の日吉・日枝・山王社の総本社。比叡山の地主神であり、天台宗・延暦寺の守護神とされる。旧・官幣大社。
◆『日吉社神道秘密記』
天正10年(1582年)に祝部行丸が著す。日吉大社にある各神社の由来などを記した書。祝部は日吉社社家であり、織田信長によって焼き討ちにされた日吉大社の復興に尽力、“中興の祖”と呼ばれる。
◆鉄鼠
この名称は、鳥山石燕(1712-1788)が「画図百鬼夜行」の中で“頼豪の霊が鼠と化した”として紹介したものが初見である。『平家物語』などでは“頼豪鼠”“三井寺鼠”と呼ばれており、『太平記』の“鉄の牙、石の身体”という記述を元に名付けたのは疑いないところである。
アクセス:滋賀県大津市坂本5丁目(鼠社)
滋賀県大津市園城寺町(鼠の宮)