帰雲城埋没地

【かえりくもじょうまいぼつち】

戦国時代、現在の白川郷一帯を領有していたのは内ヶ島家という豪族であった。その一族が居城としていたのが帰雲城である。

内ヶ島一族がこの白川郷を領有するのは寛正年間(1461~1466年)頃とされる。内ヶ島氏は足利家の奉公衆であり、8代将軍・足利義政の命によって赴任したとされる。以後、白川郷に勢力を持つ一向宗の正蓮寺と対立・和解をする以外には大きな戦いもなく、また領地を広げるようなこともなかった。だが4代目の内ヶ島氏理の代になって、ようやく歴史の波がこの地にも押し寄せてきた。

天正13年(1585年)、羽柴秀吉は配下の金森長近に飛騨攻略を命じた。飛騨の大半を治める姉小路(三木)自綱は越中の佐々成政と組んで抵抗。内ヶ島氏理もその同盟に加わり、越中に援軍するなどの軍事行動を取る。しかし金森軍は姉小路家の居城を攻め落とし、また佐々成政も秀吉に恭順してしまった。さらに居城の帰雲城も越中遠征中に内応によって金森軍の手に落ちてしまったため、内ヶ島氏理はやむなく金森長近の許を訪れて和睦、金森氏に臣従することで所領安堵となったのである。

同年11月29日。和睦による所領安堵を受けて、帰雲城では祝宴が開かれた。城主をはじめ、内ヶ島一族郎党が全員集まっての宴であった。ところがその夜半、突如悲劇が起こる。天正地震と呼ばれる大地震が発生、帰雲山が崩落し、帰雲城とその城下町は土砂に埋まってしまったのである。これによって帰雲城は、内ヶ島一族と共に一夜にして歴史から消えることになる。

現在、国道156号線の脇に“帰雲城埋没地”として城址の碑や帰り雲神社などがあるが、これは田口建設という採石業者の社長の夢枕に内ヶ島氏の武将が現れたことが発端で造られた施設であって、あくまで比定地でしかない。帰雲城とその300軒余りの家があったとされる城下町は跡形もなく土砂に流され、その所在地は全く不明のままである。また、白川郷一帯は金銀の産出地であり、内ヶ島一族がこのやせ細った土地に勢力を張れたのは金鉱を掘り当てていたためと考えられ、その蓄えられた金銀が地震によって埋まってしまっているという「埋蔵金伝説」も残っている。

<用語解説> 
◆金森長近
1524-1608。織田家家臣。賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に臣従。秀吉の飛騨討伐の主力として活躍し、平定後に飛騨一国を領し、高山に居城を置く。関ヶ原の戦い以降、飛騨高山藩の祖となる。

◆姉小路(三木)自綱
1540-1587。飛騨国司の姉小路の名跡を継ぎ、さらに三木氏の家督を継ぐ。はじめは上杉謙信と、謙信死後は織田信長と手を組み、飛騨国統一を図る。本能寺の変後に飛騨を統一するが、柴田勝家・佐々成政に味方したために、賤ヶ岳の戦いの後に羽柴秀吉に攻められ敗北。一族はことごとく自害、自らは京都に幽閉された後に没する。

◆佐々成政
1536?-1588。織田家家臣。黒母衣衆に抜擢、初期から鉄砲隊を率いるなど武功を挙げる。北陸方面を指揮する柴田勝家の与力として越中一国を領する。柴田勝家と共に羽柴秀吉と戦うが、降伏。

◆天正地震
天正13年11月29日(1586年1月18日)発生の地震。美濃を震源として、東海・近畿・北陸に大きな被害をもたらす。上記の帰雲城埋没の他、美濃の大垣城が焼失、越中の木舟城が倒壊、近江の長浜城が半壊する。また京都の三十三間堂の仏像が600体以上倒れるなどの被害。伊勢湾で津波(若狭湾でも津波とされるが誤記録の可能性あり)。マグニチュードは推定で8前後とされる。

アクセス:岐阜県大野郡白川村保木脇