木嶋坐天照御魂神社

【このしまにますあまてるみたまじんじゃ】

創建については伝わっていないが、平安遷都より前からこの地にあった古社である。一説ではこの地で栄えた秦氏が広隆寺と共に創建したとも、あるいは秦氏入植以前にこの地にあったものとも言われる。

祭神は、現在は記紀神話に登場する神々となっているが、元は“天照御魂神”と明記されている。この神は、天照大神とは全く異なる太陽神とみなされている。ここからもこの神社が古い歴史を持っていると考えられるだろう。

この神社は地元では“木嶋神社”あるいは“蚕ノ社”と呼ばれているが、本殿の東隣にある蚕養神社からその名が採られている。渡来人であった秦氏が養蚕技術をこの地にもたらしたことと関係する神社と推測できる。

秦氏との関連をうかがわせる最も有名なものが、元糺の池に置かれた“三柱鳥居”であろう。「京都三珍鳥居」の1つとして数えられ、3本の鳥居を組み合わせて三角形を作った、この奇異な形はさまざまな憶測を生み、秦氏の出自と相まってオカルト的な意味を持つと噂される存在である。特に「景教(ネストリウス派キリスト教)の遺物」という説は由緒書にもあって、何となくその気にさせられる。また3柱の鳥居がそれぞれ秦氏ゆかりの松尾大社・伏見稲荷大社・双ヶ岡に向いており、そのような状況からも秦氏と関連性が高いのではないかとも言われる。

しかし『都名所図会』では、この三柱鳥居については“老人の安坐する姿をあらわした”ものであるという当社社司の説のみを書いている。要するに秦氏に繋がる伝承は江戸時代には既に残されていなかったと考えられるわけで、おそらく秦氏の時代からは遠く離れた後世に造られたものの可能性が高いと思う。むしろこの池の中央(鳥居に囲まれた部分)にある神座を保護する目的で造られたと考えられるだろう。ある意味奇抜な意匠として考え出されたものなのかもしれない。

最後に『都名所図会』にある不思議な話を。文保3年(1318年)、覚士(大江)伊時は唐の伝奇小説『遊仙窟』の読み下しを伝授されていないことを嘆いていたが、この社地に住む老翁が読みこなせることを知って相伝してもらった。後日お礼のために訪ねると草庵すらなく、老翁はおそらく木嶋社の神だったのだろうと思ったという。

<用語解説>
◆天照御魂神
天照大神とは別系統の太陽神と考えられるが、現在は『古事記』に登場する天火明命(天孫降臨する瓊瓊杵尊の兄神)と比定することが多いようである。また別説では饒速日命ど同一神であるとされる。

◆秦氏
渡来人の弓月君を祖とする。秦の始皇帝の末裔と称するが、百済からの渡来人、中央アジアのユダヤ人の末裔との諸説がある。京都の太秦を拠点に朝廷に仕えたが、この地には特に“日猶同祖論”の根拠として取り上げられるさまざまな物件が残されている。三柱鳥居もその物件の1つである。

◆元糺の池
木嶋神社の神池を指すが、その社葬にも元糺の森という名が付けられている。しかしその名の由来についてはいくつか説があるが、実際のところは不明である。また現在、下鴨神社の社叢を“糺の森”と呼ぶが、社伝によると、嵯峨天皇の御代(809~823年)に太秦にあった鴨明神が下鴨に遷された際に、元糺の名となったという。

◆京都三珍鳥居
木嶋神社の三柱鳥居の他には、京都御苑内にある厳島神社の唐破風鳥居、北野天満宮末社の伴氏社の蓮弁台座の鳥居となる。

◆『都名所図会』
安永9年(1780年)刊行。洛中洛外の名所にさまざまな解説と鳥瞰図などの挿絵を加えた地誌。 

◆『遊仙窟』
初唐時代の伝奇小説。黄河の上流へ命を受けて旅した主人公が途中で神仙の窟に迷い込み、そこで2人の女仙と歓楽の一夜を過ごすという物語。四六駢儷体を基調に書かれ、多くの韻文を交えるなどの美文である。また『万葉集』から江戸の滑稽本・洒落本まで影響を与えた。

アクセス:京都市右京区太秦森ヶ東町