元三大師御廟

【がんさんだいしみみょう】

初期の比叡山の発展に功績のあった僧といえば、開祖である伝教大師最澄、天台密教の完成者である慈覚大師円仁、そして天台中興の祖といわれる慈慧大師良源(元三大師)である。この三人には数々の逸話・伝説があるが、とりわけ比叡山にゆかりのある逸話を多く持つのが良源である。

比叡山の横川(ヨカワ)は良源が長く修行を積んだ地であり、そこには元三大師堂(四季講堂)と呼ばれるゆかりの堂がある。その裏手の奥に “元三大師御廟”がある。ここが【比叡山四大魔所】の一つなのである。元三大師の墓所は、開祖伝教大師の墓所と区別するために【みみょう】と呼ばれている。なぜそこまでして【御廟】という言葉にこだわるのか。それはこの廟所が比叡山にとって非常に重大な意味を持っているからなのである。

元三大師の墓所の奥はただ切り立った崖であり、ここから先には何もない。しかも京都から見ると北東の位置にある。つまりこの御廟は比叡山の最果ての地であり、京都の鬼門に当たる比叡山の、そのまた鬼門に当たる横川の、更にはその最も鬼門に当たる場所にあるのである。要するにこの地は鬼門中の鬼門であり、魔なるものを封じる最前線ともいうべき場所なのである。

良源はこの地に葬られることを望み、また遺言として墓所は荒れるに任せるように言ったという。彼は自分が葬られる場所がどのような意味を持つ場所かを理解し、そしてそこに葬られる自分の役目を全うすることを誓ったのである。それは自らを魔なるものとし、魔をもって魔を抑えることを意味するのである。

足繁く人が訪れる場所でないにもかかわらず掃き清められた御廟の周囲と、名もない草木が生えるに任せた墓所とのコントラストは、ある種の凄まじさを覚えるに十分であった。

<用語解説>
◆良源
912-985。第18代天台座主。諡号は慈恵大師であるが、元三大師の名の方が有名(この名は良源が正月三日に亡くなったことから付けられている)。別名、角大師・豆大師(後述)。焼失したままの諸堂を復興させ、僧制を新たにし(自衛のための僧兵の制はこのときできたとされる)、また横川を東塔と西塔に並ぶ修行の地とした。源信(後の恵心僧都)、尋禅(後の慈忍和尚)などの四哲をはじめとして弟子の数は三千と言われ、日本仏教の隆盛にも貢献している。おみくじの元祖ともされている。

◆角大師
元三大師は別名“降魔大師”とも呼ばれている。ある時、疫病神が現れたが法力をもって退散させた。しかし疫病から民を救う必要を感じた大師は全身が映る鏡を持ってこさせてその前で瞑想すると、鏡に映った姿が変化して骨ばかりの鬼の姿となった。その姿を弟子の一人(慈忍和尚といわれる)に描かせ、それを護符として配ったという。これが【角大師】と呼ばれる護符である。自らが魔となり、魔をもって魔を制する実践例というべき逸話である。

◆豆大師
元三大師の別称。朝廷へも出入りしていた元三大師であるが、容姿端麗であったため女官達が一目見ようと押し寄せてくる。そこで彼は法力を使って小さな魔物となって女官達を避けたという。これが【豆(魔滅)大師】の由来らしい。豆大師の護符は元三大師の姿を三十三体(これは観音菩薩の三十三変身に通じるらしい)かたどったものである。

◆おみくじ(元三大師堂)
最初に僧に対しておみくじを引く目的(願い事など)を語ってから、おみくじを受ける。そして受け取ってから、僧よりこのおみくじの意味を説かれることになる。一般的なおみくじのスタイルとはかなり異なっている。

アクセス:滋賀県大津市坂本本町