鎧塚

【よろいづか】

江戸日本橋油町に美濃屋権兵衛(加藤淨雄)という質屋があった。ある時、この店に緋色の鎧一式が質入れされた。その夜から急に家鳴りがするようになった。家人は不安を覚えたが、それ以上のことが起こらなかったらしく、3年が過ぎていった。その間鎧を請け出す者もなく、古物商に売り払ってしまったところ、家鳴りが収まったという。

それから半年後、また緋色の鎧を質入れする者があった。別人の質入れだったが、よく見ると以前に質入れされた鎧であった。それの証拠と言わんばかりに、また家鳴りが始まった。気味が悪いと思ったが、質草なのですぐに処分するわけにもいかず、1年経ったところでまた古物商に売り払った。

ところがまた半年ほどして、緋色の鎧を質入れしようとする者が現れた。今度はすぐに気付いて番頭が必死になって断りを入れた。そこに主人の権兵衛が現れ「数日前、信心している甲斐善光寺の如来の夢を見たのだが、同じ鎧が3度も来るというのは何か深い所以があるのだろう」と言って、この鎧を受け取った。そして甲斐善光寺へ持ち込んで、この鎧をかつて着ていた者の霊を供養し、境内の北にそれを埋めると五輪塔を建てたのである。

『西山梨郡志』によると、これは享和元年(1801年)の出来事であるとされているが、現在でも甲斐善光寺の北に位置する場所に鎧塚がある。その後の経緯については書かれていないが、おそらく美濃屋権兵衛の功徳によって鎮まっているのだろう。

<用語解説>
◆日本橋油町
実際には【日本橋通油町】が正しいと思われるが、記載の通りとする。ちなみに通油町は、昭和7年(1932年)に日本橋大伝馬町に編入され、名称は消滅している。

◆甲斐善光寺
永禄元年(1558年)に武田信玄によって建立。信濃へ進出し善光寺一帯を支配権に治めた信玄が、善光寺の本尊や寺宝などを甲斐へ持ち帰ったことから始まる。武田氏滅亡後、善光寺如来(本尊)は織田・徳川・豊臣の各所領地に一時的に安置されるが、慶長3年(1598年)に善光寺に戻されている。

アクセス:山梨県甲府市善光寺町