大山祇神社

【おおやまづみじんじゃ】

伊予国一之宮。全国の大山祇神社、三島神社、山神社の総本社とされる。祭神は大山積神。

養老3年(719年)には現在地に社殿が完成し、平安時代には“日本総鎮守”の名称が与えられた、日本有数の神社である。特に武家からの信仰が篤く、数多くの武具の奉納がおこなわれた。国宝・重要文化財が多数、とりわけ甲冑に関しては、国指定の文化財の大半が大山祇神社の所蔵となっており、宝物館に展示されている。

その貴重な甲冑の中でも異彩を放つ一領がある。胸回りが広く、胴の部分が絞られた胴丸である。全国でもこのような甲冑は唯一つだけであり、女性が身につけていた甲冑とみなされている。そしてこれを着用したとされる人物も伝えられている。

大山祇神社の社家である大祝氏は、伊予の豪族・越智氏の後裔であり、さらに伊予一帯を支配する河野氏の同族である。それ故に、神職でありながら水軍の統括者として戦にも関与するという立場であった。ただ立場上、陣代という形で一族の者を戦場に送り出す慣わしであったという。

戦国の世になって、瀬戸内では周防の太守・大内氏が台頭、次第に河野氏の所領にも侵攻を始めた。天文10年(1541年)、大祝安舎の代に大内氏が攻め入った時、陣代となった弟の安房は討死したため、再度の大内氏侵攻の際には妹の鶴姫が陣代となって戦闘に参加、見事に撃退したのである。この鶴姫が、上の甲冑を着用したとされる人物である。

天文12年(1543年)、大内氏はさらに強力に侵攻を進め、主力の陶高房を主将として攻め込む。鶴姫は再度陣代として出陣するが、思い人であった越智安成が討死する。一旦兵を引いた鶴姫であるが、早舟による急襲をおこない、大内軍を敗走させることに成功する。しかし鶴姫はこの戦いの最中に行方知れずになったとも、戦いの後に思い人の死を嘆き入水自殺したとも伝えられる。18歳であった。

この鶴姫の伝説は、昭和41年(1966年)に出版された、大祝家の一族である三島安精の『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』という書籍によって脚色・創作された部分も多いが、現在ではかなり流布する伝承とされている。

また境内には、能因法師が歌によって雨乞いの祈願をおこなったとされるクスノキがあり、幹周り17m、推定樹齢3000年という日本最古のクスノキと言われている(ただし既に枯死している)。

<用語解説>
◆大山積神
伊弉諾尊と伊弉冉尊の間に生まれた神。山の神であると同時に海の神の性格も併せ持つ。磐長姫と木花咲耶姫の父であり、皇室とも関連深い神である。

◆鶴姫
1526-1543。大祝家の古文書にその名が記載され、大内家と戦ったことは史実であるとされる。ただし、重要文化財の紺糸裾素懸威胴丸(甲冑)が鶴姫着用のものであるかについては、フィクションの域を出ない。

◆能因法師
988-1050?(1058?)。中古三十六歌仙の一人。雨乞いをおこなったのは長久2年(1041年)のこととされる。

アクセス:愛媛県今治市大三島町宮浦