鈴ヶ森刑場跡

【すずがもりけいじょうあと】

歴史的な重みを考えると、この土地ほど血塗られた場所はないのではないだろうか。とにかく十万単位の人間がここに屍を晒しているのである。

この鈴ヶ森の刑場だけにあったと言われる処刑法は「火炙」と「磔」である。それに使われたという台石がここには残されている。この二つの処刑方法 は他の刑罰よりも遥かに凄惨である。

まず火炙の方法であるが、これは足元からじわじわと焼く。しかし火の勢いは強くなく、途中海風が強く吹くと火が消え、罪人は何度も悲鳴を上げては悶絶するという(実際、八百屋お七の処刑の際には、数キロ四方まで悲鳴が聞こえたそうである)。そして多くの罪人の死因は窒息死。一気に焼き殺されず、自分を焦がしていく煙に巻かれて死ぬのである。

一方の磔の方法であるが、こちらも負けず劣らず残酷である。槍を両脇腹から突き刺し、一気に反対側の肩口(頸動脈の辺り)に突き通す。そして槍を引っこ抜くと更にそれを二十回前後繰り返す。死体はずたずた、特に臓物などが散乱したという。いずれにせよ、斬首のように一瞬でけりがつくような死に様ではなく、まさに街道筋での見せしめ的行為であったと言える。

それほど広くないエリアには、刑場にまつわる3つ目の遺跡をである【首洗いの井戸】がある。ただし井戸は完全に金網で防備されており、中を覗き込むことは出来ない。

<用語解説>
◆鈴ヶ森刑場
慶安4年(1651年)に開設。東海道に面し、江戸の入り口に当たる場所に作られ、小塚原刑場・板橋刑場と並んで、江戸の三大刑場と言われる。最初に処刑されたのは、慶安の変で捕らえられた浪人・丸橋忠弥。明治4年(1871年)に閉鎖される。現在は隣接する大経寺の境内であり、管理されている。

アクセス:東京都品川区南大井