利田神社 鯨塚

【かがたじんじゃ くじらづか】

創建は寛永3年(1626年)、沢庵和尚が弁財天を勧請したことから始まる。当初は“洲崎弁天”と呼ばれていたが、この一帯が南品川宿の名主・利田吉左衛門によって開発されて“利田新地”と呼ばれるようになり、明治になってから利田神社と改名している。

寛政10年(1798年)5月1日、前日からの暴風雨で品川沖に1頭の鯨が迷い込んできた。猟師町に住む漁民達はこぞって舟を出してこれを天王洲に追い込み、ついには浜に乗り上げたところを捕獲したのである。記録によると、体長は約16m強、高さ約2mのセミクジラとされる。

この大鯨捕獲の報はあっという間に広がり、人々はひと目見たさに品川沖に集まってきた。沖にあった鯨をもっと近くで見ようと舟を雇う者も多く、近辺の漁民は結構潤ったという話もある。

さらに評判を聞いた将軍・徳川家斉も浜御殿で上覧することが決まり、鯨に縄を掛けて舟で浜御殿まで引っ張っていった。将軍は大層喜び、漁民に【猟師町元浦】という旗を贈ったという。

この上覧によってさらに鯨見物は熱を帯びたのだが、長い間の係留で鯨は弱っておりとうとう死んでしまった。そこで村役人の検分後、死骸は解体されて脂が取られた。胴体部分の払い下げでは41両ほどで落札されたという。そして残った頭骨は、当時の洲崎弁天の境内に埋められ、その上に塚が建てられたのである。

「寛政の鯨」と呼ばれる珍事はこうして幕を下ろしたが、現在でも利田神社境内の片隅に、都内唯一の鯨供養碑ということで塚が残されている。その周囲には鯨を模したモニュメントや遊具などが置かれている。

<用語解説>
◆寛政の鯨
「江戸三大動物事件」として“享保の象”と“文化のらくだ”と共に挙げられる。

◆徳川家斉
1773-1841。徳川第11代将軍。将軍在位は1787-1837。

アクセス:東京都品川区東品川