象小屋跡
【ぞうごやあと】
享保13年(1728年)6月7日、長崎の港に安南(ベトナム)からの唐船が到着した。乗せられていたのは2頭の象。雄が7才、雌が5才という、まだ子供の象であった(象と人間の実年齢はほぼ同じと言われる)。8代将軍・徳川吉宗が取り寄せたものであった。
しばらく象は長崎で飼育されたが、9月には雌の方が病気で死に、ようやく献上となったのは翌年のことであった。ベトナム人の象使い2名を始め、通訳や長崎奉行所の役人など総勢14名が引き連れて、3月に陸路で江戸へ向かったのである。象を乗せるだけの大きさの船が手配できなかったのが原因であるとされる。
そして4月下旬、京都で中御門天皇・霊元法皇の上覧がおこなわれる。その際に無位無冠のままでは謁することが出来ないため、“広南従四位白象”の官位が授けられたという。また道中では暴れることを怖れて、大きな音を立てるな、動物を近づけるな、外に出て見物するな、など各宿場ごとに触れを出したり、事細かに小屋の造作を指示したりと、てんやわんやであったようである。
5月27日江戸城内で将軍上覧があった後、象は浜御殿で飼われることになった。だが、飼育に年200両掛かり、大量の餌などの世話、さらに番人を殺すなどの事故もあり、享保17年(1732年)には幕府によって中野に象舎が建てられ、当時から世話をしていた中野村の源助に払い下げられたのである。
当時の江戸の象人気は相当なもので、源助も象を鎖で繋いで見世物興行をおこなうだけではなく、象の糞を疱瘡の薬として売り出し(“象の泪”という名で売ったらしい)、結構な稼ぎがあったらしい。ただ熱しやすく冷めやすいのは人の世の習いで、やがて人気が衰えると世話に掛かる費用が逼迫。与えられる食料も減らされて、やがて象は衰弱して22才で死んでしまう。寛保2年(1742年)のことである。その後、皮の一部が幕府に献上され、源助は象牙一対が下賜されたという。そして頭骨を含めて近隣の宝仙寺に収められたが、先の大戦で一部を残して焼失している。
中野区の朝日が丘公園には「象小屋跡」の駒札が立てられており、かつてここに象が飼われていたとされている。今はどこにでもある児童公園でしかない。
<用語解説>
◆徳川吉宗
1684-1751。徳川8代将軍。西洋文化に対して興味を持ち、キリスト教関連以外の書物を輸入するなど、積極的であった。動物については象以外にも、享保10年(1725年)にオランダよりアラブ種馬を5頭など計29頭を輸入している。
◆宝仙寺
平安時代後期に源義家によって開基される、真言宗の寺院。江戸時代には将軍家から保護を受け、鷹狩りの休憩所とされるなどした。
アクセス:東京都中野区本町