田道間守の墓

【たじまもりのはか】

第11代垂仁天皇陵とされる宝来山古墳は、全長227mというかなり大きな前方後円墳である。この古墳に寄り添うように水辺に浮かぶ小さな島(円墳)がある。これが田道間守の墓と呼ばれているものである。

田道間守は垂仁天皇の忠臣とされ、その名は記紀にも記載されている。新羅の王子で日本に渡来した天日槍の子孫であり、但馬国の出自とされる。垂仁天皇90年の時、不老不死の霊菓である“非時香具菓(ときじくのかぐのこのみ)”を常世の国で求めてくるように命じられた田道間守は、中国大陸へ渡り、10年間掛けてようやくその実を持ち帰ったのである。

ところが帰り着いてみると、垂仁天皇は1年前に亡くなっていた。悲嘆に暮れる田道間守は、持ち帰った非時香具菓の半分を御陵に眠る垂仁天皇に捧げ、その陵の前で慟哭しそのまま死んでいったとされる。

古墳の濠にある島なので人造物であることは間違いないが、古墳と同時期に造られたものであるかの確証はない。慶応3年(1867年)に朝廷と幕府に献上された『文久山陵図』にはこの墓は描かれておらず、またそれ以前にこの墓について言及した記録もなく、いつ造られたものなのかは謎に満ちている。ただ垂仁天皇の御陵に寄り添うことのできる唯一無二の人物が田道間守であることだけは間違いないところなのであろう。

<用語解説>
◆垂仁天皇
第11代天皇。在位は99年に及び、長寿を保ったとされる(『日本書紀』では140歳で没とされる)。皇后の父は、四道将軍として丹波を治めた丹波道主命。また垂仁天皇3年に、田道間守の祖である天日槍が来朝している。

◆天日槍(あめのひぼこ)
記紀に登場する新羅の王子。赤い石が化身した娘と結婚したが、喧嘩をしたために妻が故郷の日本に逃げ帰ってしまい、それを追って来日したとされる(『古事記』による)。また垂仁天皇3年に神宝を持って来日したとされる(『日本書紀』による)。いずれにせよ来日後は但馬国に定住した。

◆非時香具菓
田道間守が持ち帰った霊菓は、橘の実であるとされている。ただし橘の木は日本固有の柑橘類の種であることが判っている。
またこの霊菓をもたらしたことで、田道間守は「菓子の祖」(昔は果物も菓子とみなされていた)とされ、中嶋神社の祭神として和菓子業者より崇敬を受けている。

◆『文久山陵図』
戸田忠至が慶応3年(1867年)に朝廷と幕府に献上した絵図。戸田は宇都宮藩家老で、幕府による天皇陵修復の実質責任者。文久年間におこなわれた、畿内などにある47の御陵についての修復の様子を、修復前と修復完成の両俯瞰図で示したもの。

アクセス:奈良県奈良市尼辻町西池