荒脛巾神社

【あらはばきじんじゃ】

荒脛巾神は謎の多い神である。東北・関東地方で祀られていることの多い神であるが、“客人神”という立ち位置で、その出自ははっきりとしない。おそらく朝廷の信奉する神々とは別系統で信仰されていた土着の神が、取り込まれて生き残ったものであると推測するのが妥当だろう。それだけ強く信仰されたと考えられる神であるが、ただその性格は多様である。一方で『東日流外三郡誌』の記述によって固着したイメージがあり、ミステリアスな存在となっている。

多賀城市にある荒脛巾神社は、鹽竈神社の境外末社となっている。創建時期は不明であるが、安永3年(1774年)の記録には記載されており、その頃には仙台藩より所領が寄進されていたという。この神社は一般的には“腰から下の病気”にご利益があるとされている。この神の名にある「脛巾」が脛に巻いて用いられる装具であることから、足腰に関するご利益が求められたのだろう。また「脛巾」が旅に用いられることから“旅の神”と考えられ、祠にはたくさんの草鞋が奉納されている。さらに旅から連想されるためか、あるいは神社の立地から境界を守る守護神とも考えられ、“塞の神=道祖神”的性格も帯びており、実際、道祖神のシンボルでもある男根がいくつも奉納されていたりする。

その他にも境内には鋏を奉納した養蚕神社があったり(鋏は「病の根を切る」という意味があるとされているが、これをもって荒脛巾神を“製鉄”の神と考える説もある)、何故か聖徳太子を祀る太子堂があったり、とにかく種々雑多な信仰が荒脛巾神に融合されている感が強い。またこの神社は民家の敷地内を通って入っていくために、さらに民間信仰らしい雰囲気を醸し出している。

<用語解説>
◆客人神(まろうどがみ)
一般的には“神社の主祭神と対等もしくは下位に位置する神で、外からやって来て主祭神には従属はしていない状態で祀られる”とされている。しかし折口信夫らによると、客人神こそが神社創建以前の土着神であり、主祭神の方が後からやって来た神とする。荒脛巾神の場合も、信仰されている地域が限定的であることから土着神であると見るべきあり、記紀神話成立以降に大和朝廷の支配地となったために神話の体系に組み込まれず、かといって土着の神話において最高神(創造神・開拓神)に近い存在であった故に排除されず“融合”という形で残されたのではないかと考えて良いかもしれない。しかしながら存在は残されても、彼らが元来持っていた性格は消し去られ(特に後から“支配者”として入ってきた記紀神話の神々と役割が重複する場合)、新たなものに改変されたとも推察できるだろう。

◆『東日流外三郡誌』(つがるそとさんぐんし)
戦後、和田喜八郎が発見したとされる古文書。しかし現在では様々な観点から「偽書」と断じられている。アラハバキの名は“荒覇(羽)吐”と表記され、津軽地方を治めた一族の名として登場する。そしてアラハバキ神の像として遮光器土偶が描かれており、これがイメージとして広く流布することになる。全くの偽書であるとみなすものの、荒脛巾神を東北一帯を治める民の主神と位置づけた点は示唆に富むものがあると思う。

アクセス:宮城県多賀城市市川