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将軍地蔵

【しょうぐんじぞう】

氏家地区の旧国道4号線(現・県道125号線)沿いのお堂に安置されているのが将軍地蔵である。この地蔵の由来については、次のような伝説が残っている。

奥州へ軍を進める源義家が下野国まで下向してきた時のこと。鬼怒川を軍勢が渡ろうとすると、釜ヶ淵に棲む大蛇がそれを妨害してきた。力尽くでは埒が開かないため、退治を買って出たのが、義家と共に下向してきた藤原宗円という僧。宗円は法力を使い、大蛇の動きを封じて撃退したのである。それと同時に皆の目の前に現れたのが一体の地蔵である。義家はこの霊験を大層喜び、この地蔵を築いたばかりの勝山城の守り本尊とするべく、満願寺を建てたのである。

このような不思議な出自を持つ地蔵であるが、さらに驚くべき伝説を持っている。それが「そうめん地蔵」の異名を持つに至った、痛快な伝説である。

室町時代の頃、万願寺の僧侶が日光二荒神社へ参拝した帰り、滝尾別所という場所で休んでいると腹が減ってきた。そこで近くの別所を訪ねて素麺を一杯所望した。ところがこの別所の山伏たちは意地が悪く、万願寺の僧侶を中に招き入れると、食べきれないほどの素麺を供した。これ以上は食べられないと僧が言うと、「“一杯”所望と言うたではないか」と無理強いする。僧は何とか食べようとするが、とうとう気絶してしてしまった。

気を失った僧を見て山伏たちが大笑いしていると、そこに別の僧が現れて素麺一杯を所望した。同じように山伏たちは山盛りの素麺を出したが、今度の僧はそれをいとも容易く食べてしまう。平然とする僧を見て山伏たちはこれでもかと素麺を出すが、顔色も変えず僧は食べ尽くす。引くに引けなくなった山伏たちは日光中の素麺をかき集めて出したが、それでも僧はすました顔で食べる。最後まで食べきった僧を前に、とうとう山伏たちは詫びを入れる始末となってしまった。その時、僧は立ち上がると地蔵菩薩の姿となって、気を失った僧を抱えて別所を後にした。このことから、万願寺の地蔵尊は「そうめん地蔵」と呼ばれるようになったという。

また一説によると、地蔵の食べた素麺は近くにある谷に大量に流れ出て、あと少しで滝尾別所にまで押し寄せてきていたという。そのため、この谷を「そうめん谷」と呼ぶそうである。

万願寺はその後、戦国時代になって焼き討ちに遭って灰燼に帰し、江戸時代に地蔵堂だけが再建されて今に至る。奥州街道に面した場所にあり、下野国から離れた土地の者からも石灯籠が寄進されるなど、大いに信仰された地蔵であった。

<用語解説>
◆源義家
1039-1106。河内源氏出身の武将。八幡太郎と呼ばれ、伝説的な武将とされる。前九年の役・後三年の役で奥州に出征。関東における源氏の基盤を確立した。

◆藤原宗円
1033-1111。関白藤原道兼(あるいは弟の道長)の曾孫に当たる。前九年の役(1051-1062)の際に源頼義・義家の与力として調伏などの功績があるとされ、下野国守護及び下野国一之宮別当職に任ぜられる。その後は下野国に在住、後の宇都宮氏の始祖となる。

◆日光の強飯式
奈良時代以降、日光山輪王寺でおこなわれる伝統的儀式。山伏が強飯頂戴人と呼ばれる者の頭に3升の飯を盛った椀を乗せ、それを食べるよう強要する儀式で有名。この「日光責め」と呼ばれる一連の儀式が“そうめん地蔵”の伝説で山伏がおこなったことが元となっているとの説もある。

アクセス:栃木県さくら市氏家

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