鶴富姫の墓
【つるとみひめのはか】
椎葉村は平家の落人伝説が残されている土地である。その伝説の中心となるのが鶴富姫である。
壇ノ浦の戦いで敗れた平家の残党の一部は、豊後から阿蘇を越えて椎葉の里に逃れてきて、この地に住み着くようになった。しかし、この里もやがて幕府の知るところとなり、源頼朝は那須与一に追討を命じたが、与一は病のために叶わず、代わって弟の那須大八郎を大将として追討軍が派遣されたのである。
元久2年(1205年)、椎葉を追討するため陣を敷いた大八郎であったが、この土地の落人は既に土着してしまい、平家再興の意志もないことを知る。もはや討伐する理由がないため、大八郎は残党は全て征伐したと鎌倉に報告し、この土地に滞在することを決めた。そして土地の者に農耕を教えたり、また厳島神社を勧請したり、村の発展のために力を貸したのである。
大八郎の身の回りの世話をしている者の中に、平清盛の末孫と言われる鶴富姫がいた。いつしか二人は恋に落ち、やがて鶴富姫は子供を身籠もった。しかしその時、鎌倉から大八郎に対して帰還の命が下った。二人は泣く泣く別れることとなったが、大八郎は別れ際に太刀と系図を与え、「生まれてきた子が男児であれば下野国(大八郎の所領地)へ差し寄越すよう、女児であればそれに及ばず」と言って国許へ帰ったのである。
鶴富姫が産んだ子は女児であったため椎葉に残り、その後婿を取り“那須”の姓を名乗ることとなったのである。以後、椎葉の村は那須家が治めたとされる。
現在でも鶴富姫の末裔である那須家は続いており、その住居は「鶴富屋敷」として国の重要文化財として残されている。その住居と同じ敷地内に鶴富姫の墓と呼ばれるものがある。また鶴富屋敷に隣接するようにある丘には、鶴富姫が使っていたとされる湧き水(鶴富姫化粧水)があり、その丘の頂上には椎葉厳島神社がある。
<用語解説>
◆那須大八郎宗久
那須与一の弟とされるが、正式な史書にはその名はなく、椎葉村の伝説にのみ名が残っている。
那須与一宗高(1169?-1190?)は源平の屋島の戦いにおいて、扇の的を射た逸話で知られる武将である。
アクセス:宮崎県東臼杵郡椎葉村下福良