寅子石

【とらこいし】

高さ4mの板碑であり、それが水田の広がる一画にスクッと立っている。刻まれている内容によると、この板石塔婆は延慶4年(1311年)に、親鸞の高弟であった真仏法師の法要供養のため、唯願という者が銭150貫で建てたものである。しかし、この碑は「寅子石」という名で呼ばれ、この地方に伝わる悲劇を語り継いでいる。

この付近に住む長者夫妻には、寅子という見目麗しい娘がいた。一説によると、寅子は実の子ではなく、承久の乱後に姿を消した三浦義直という侍の娘であり、母子で父を求めている最中に母がこの地で病を得て亡くなったために長者の娘になったという。

成長するにつれてその美しさは際立ち、周辺の若者達は毎日のように長者の許を訪れて嫁に欲しいと頼み込んできた。最初は喜んでいた夫妻であるが、求婚話のせいで周囲でいさかいが起きるようになって、却って心配事に変わっていった。そして寅子も自分のためにいがみ合い騒ぎとなる状況に心を痛め続けたのであった。

ある時、長者夫妻は寅子に求婚してきた若者全員を酒宴に呼んだ。いよいよ寅子の婿が決まる時と若者達は勇んで屋敷を訪れた。そして豪勢に盛られた膾を肴にして酒を呑みその時を待ったが、一向に肝心の寅子が現れない。業を煮やした若者達が長者に詰め寄ると、長者は涙ながらに真相を語り出した。

皆の者に求婚され悩み果てた寅子は自害しました。最期に「皆様に等しくこの身を捧げたい」と望んで死にました。先ほど出しました膾こそ、寅子の腿の肉。寅子の遺言通り皆の者に等しく分け与えました。

その言葉を聞いた若者達は言葉を失い、そして己の浅ましさを恥じ、寅子の冥福を祈るために全員で供養塔を建立したという。さらに出家をする者もあり、供養塔が見える土地にそれぞれ自分たちの俗名にちなんだ源悟寺・満蔵寺・慶福寺・正蔵院・多門院を建てたとも伝わる。

アクセス:埼玉県蓮田市馬込