栗柄神社
【くりからじんじゃ】
源頼光四天王の一人、坂田金時(公時)は実在の人物であるとされる。しかし雷神と山姥の子として足柄山に生まれ、赤の腹掛けに鉞をかついだ怪童“金太郎”と呼ばれた幼少期はあくまで伝説であり、史実としては源頼光の郎党として活躍した“公時”という武者の存在が記述されている程度である。
このように実際にはかなり実在が微妙な人物であるが、その最期に関してはかなり具体的な話が残されている。
源頼光と四天王は、朝廷の命を受けて九州の賊を平定するために西へ向かっていた。ところが大雪と寒波のために、途中の美作国でしばらく滞在を余儀なくされた。そのうち金時は熱病に罹り、頼光らの看病の甲斐もなく亡くなってしまったという。頼光はやむなく遺骸を近くの丘の上に葬って西へ向かったされる。
この坂田金時が葬られた地に今もあるのが、栗柄神社である。住宅地の外れにあるこの神社はさほど大きなものではないが、周囲はよく整備されており、長く近隣で崇敬されていることが分かる。
ちなみに“栗柄”の名称であるが、“倶利伽羅”の語を別字で表したものである。“倶利伽羅”は八大龍王の一つ・倶利伽羅龍王のことで、炎を発した黒龍が宝剣に巻き付いた姿をしている。そしてそれは不動明王の化身として(あるいは不動明王が手にする宝剣として)一切の邪悪・罪障を滅するとされて、崇拝の対象となっている。この剣を持って悪を討ち滅ぼす不動明王の姿を、大力の武将の姿になぞらえて名付けたものだと推察される。
<用語解説>
◆実在の“公時”
源頼光存命中に“下毛野公時”という近衛府官人がおり、その姿形や所作から「近衛府第一の者」と宮中特に女官の間で称された。騎射に長け、相撲使としても優れ、藤原道長の随身も勤めた(その名は『御堂関白日記』にも登場する)が、わずか18歳で亡くなった。しかしその名は長く噂となったとされる。そして鎌倉期に成立した『今昔物語集』では、公時の名は源頼光の郎党として記されており、謎の多い坂田金時の原型に当たる人物とされている。ちなみにこの下毛野公時は、相撲使の役目として参加できる者を探しに訪れた筑紫で客死している。
◆伝説の“金時”
頼光四天王の中で、その出自が不明な者は坂田金時のみである(渡辺綱は摂津源氏、碓氷貞光は桓武平氏、卜部季武は坂上氏の子孫とされる)。この出自不明の坂田金時が雷神と山姥の子とされるのは、その超人的怪力の源泉が“魔”に繋がることとして、頼光四天王が退治した酒呑童子・土蜘蛛などを“魔を以て魔を制する”力の持ち主を配する必要があったと推察される。
アクセス:岡山県勝田郡勝央町平