天照寺 千方五輪塔

【てんしょうじ ちかたごりんとう】

天照寺は、創建が延元元年(1336年)の古刹である。当初は天正寺の名で多くの伽藍を有する大寺院であったという。その墓が並ぶ裏山の頂上付近に、一基の大きな五輪塔がある。ほぼ人と同じ背丈の五輪塔には、正平17年(1362年)の銘が刻まれており、市の文化財にも指定されている。これが藤原千方の首塚であるという伝承を持つ。

藤原千方は『太平記』巻十六にある「日本朝敵事」に、土蜘蛛・平将門と共にその名が見える。

天智天皇の御代、藤原千方という者が4匹の鬼を従えて伊賀・伊勢国で朝廷に対して反旗を翻し、傍若無人の振る舞いをしていたという。配下の鬼は、身体が堅くて矢をも通さない“金鬼”、敵の城を打ち破るほどの大風を吹かす“風鬼”、洪水を起こして敵を溺れさせる“水鬼”、姿を隠しにわかに敵前に現れて打ち倒す“隠形鬼”の4匹であり、この人智を超えた能力のために、千方の軍勢は敗れることがなかったのである。

そこで朝廷は千方討伐に紀朝雄を派遣する。朝雄は鬼に対して次のような歌を送りつけた。
草も木も わが大君(おおきみ)の 国なれば
いずくか鬼の 棲(すみか)なるべし

この歌を読んだ鬼達は、自分たちが悪逆非道の者に仕え、有徳の天皇に抵抗しているとなれば、天罰を免れることは出来ないと考え、千方の許から逃げてしまったのである。これがきっかけで千方の軍は朝廷軍に敗れ、最終的に千方は首を刎ねられたのである。

しかし超人的な鬼を従える藤原千方も、当然の如く、人智を超えた力の持ち主であった。刎ねられた首は川へ転がり落ちて、一旦は川下へ流れていった。ところが、「千方ともあろう者が、流れのままになりはしない」としてその首は川を遡ったとされる。

この一帯には藤原千方にまつわる伝承地が多くあるが、千方橋と名付けられた橋のレリーフには配下の鬼が描かれているが、その姿はまさに忍術使い。伊賀国で特殊な能力を持つ怪人達ということで、藤原千方以下、忍者の祖ということになっている。

<用語解説>
◆紀朝雄
友雄とも書く。藤原千方と同じく伝説上の人物とされる。『太平記』の記述で分かる通り、この伝承は武力ではなく和歌の詞(言霊)によって敵を圧倒するという展開であり、他の英雄伝とは異なる。(ちなみにこの話に続く平将門の逸話でも、京都に晒された首が和歌を詠むことによって霊力を失い、ただの白骨に化すというくだりがある)

◆四鬼の名前
『太平記』では上に挙げた金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼とされるが、謡曲『現在千方』では風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼とされる。いずれも、それぞれ特殊な能力を分担して持つという特徴は同じである。

アクセス:三重県伊賀市霧生

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