静神社
【しずかじんじゃ】
源義経の愛妾・静御前は『吾妻鏡』にその名が記されているが、わずか1年ほどの間の出来事しかなく、生没年はおろか生誕の地も終焉の地も定かではない。そのため全国各地に伝説が残されており、この丹後の地も誕生の地・終焉の地とされている。
伝説によると、静御前はこの磯の集落に生まれ、都に出て白拍子となって義経に見初められたとされる。そして囚われの身となっていた鎌倉から京へ戻ると、その後は実母(磯禅尼)と共に生まれ故郷の丹後に戻った。生家の近くに庵を設けると、終生義経の無事とその愛児の菩提を弔い、そこで亡くなったと伝わる。正確な没年は分からないが、鎌倉から戻ってさほど経っていない時期であるという。
その後、静御前母子が住まった庵の跡に社が建てられ、静御前の木像を御神体に祀る静神社として長らくあった。しかし天明2年(1782年)の火事によって社が焼失(この時義経が磯の領主に宛てた手紙や、静御前の遺品と言われる調度も消失している)、現在地に社が再建された。
網野の町の中心から西へ3kmばかりの交通の不便な場所に位置するが、現在は“京丹後七姫伝説”の一人に数えられ、観光資源としても活用されている。
<用語解説>
◆『吾妻鏡』
鎌倉時代末期に成立した歴史書。治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの鎌倉幕府の事績を中心に書かれており、この時代の一次史料となっている。静御前に関する記述は文治元年(1185年)11月から翌年9月までと短いが、その間に、吉野への逃避行・捕縛・鎌倉への護送・鶴岡八幡宮で舞奉納・男児出産・北条政子の厚情という劇的な逸話が並ぶ。
◆京丹後七姫伝説
平成16年(2004年)に6つの町が合併して出来た京丹後市にゆかりの地を持つ7名の女性。静御前・乙姫(旧網野町)、間人皇后(旧丹後町)、小野小町(旧大宮町)、細川ガラシャ(旧弥栄町)、羽衣天女(旧峰山町)、川上摩須朗女(旧久美浜町)。それぞれのゆかりの寺社や碑などを巡る観光が紹介されている。(川上摩須朗女に代わり安寿姫を入れて“丹後七姫”とも)
アクセス:京都府京丹後市網野町磯