静薬師庵
【しずかやくしあん】
『吾妻鏡』によると文治2年(1186年)9月16日、静御前が母親と共に鎌倉から京へ戻る旨が書かれている。これが史実における静御前に関する最後の記述である。これより後にどのような生涯を送ったのかは定かではなく、多くの伝説が各地に残されているのみである。その中で讃岐における静御前の伝説はかなり具体的な内容を伴って伝えられる。
鎌倉から京へ戻った静御前母子は、しばらくの間京に滞在していたらしい。そして翌年の文治3年8月に、母の故郷である讃岐国小磯に一旦帰ってきて生活をしていた。だが既に母の両親も死んでおり、身寄りも少なかったために讃岐各所へ巡礼の旅に出て、今回の戦で散った者たちの菩提を弔ったという。そしてたどり着いたのが四国八十八箇所霊場八十七番札所の長尾寺であった。文治4年の春の頃である。
ここで思うところがあったのだろう。住職の宥意和尚の元で得度剃髪し、静御前は宥心尼、母は磯野尼と名を改めて仏門に入ったのである。2人は寺から少し離れた鍛冶池のほとりに庵を造り、そこから長尾寺に通う生活を始めた。やがて2人の許には京で侍女をしていた琴路もやって来て、3人での生活となった。
数年後、母の磯野尼は、長尾寺からの帰途に倒れそのまま息を引き取る。そして宥心尼もその1年余り後に病を得て、24歳の若さで亡くなった。最後に残った琴路は、主人の野辺送りを済ませ、7日後に鍛冶池に身を投げて死んだという。建久3年(1192年)3月のことであった。
現在も鍛冶池の横に静薬師庵が残され、その敷地には静御前と侍女琴路の墓、さらには義経との間に出来た愛児の墓が建っている。
<用語解説>
◆長尾寺
四国八十八箇所霊場八十七番札所。静薬師庵から北へ約2km強の場所にある。この寺の周辺には静御前と磯禅尼ゆかりの伝承地が複数あり、境内には剃髪塚、磯禅尼の墓、静御前が愛用の鼓(初音の鼓)捨てた淵が残る。
アクセス:香川県木田郡三木町井戸