貴船明神

【きぶねみょうじん】

金沢のメインストリートから西に入った住宅地の一角にある神社である。その名の通り、京都の貴船神社の末社ということとなっているが、創建された江戸時代には“縁切宮”と呼ばれていた。かつてこの近くに加賀藩の家老・村井氏の上屋敷があったが、この家の奥方が酷く嫉妬深く、臨終の際に「女の嫉妬ほど辛いものはない。死んだら女の嫉妬を和らげて守ろう」と言ったため、死後この祠に祀られたとされる。貴船の名が先であったか後であったかは不明であるが、おそらく、京都の貴船に伝わる「丑の刻参り」の伝説がその背景にあったことは容易に推測できる。そして京都と同様、この縁切りのご利益から、縁結びのご利益もさかんに信心されるようになる。

ただこの神社の面白いところは、この縁切りと縁結びの参拝方法が異なり、それがしっかりと根付いているところである。

江戸時代の頃には次のように伝えられている。縁切りの場合は、丑の刻に用水を渡って参拝。逆に縁結びの場合は、惣構の土居を越えて参拝。ちょうどそれぞれ反対方向から参るように指示されていたという。

ところが明治になって、現在のように用水に橋が架けられてからは、また別の参拝方法に変更されている。つまり、縁切りの場合は南側(香林坊方面)から行って、小さい方の祠(玉姫社)を参拝する。対して縁結びの場合は北側(高岡町方面)から行って、大きい方の祠(貴船社)を参拝する、という決まりである。ただ何故このような参拝方法になったかは不明である。

<用語解説>
◆丑の刻参り
白装束に髪を振り乱し、顔には白粉、頭には鉄輪(五徳)をかぶって3本の蝋燭を立て、一本歯の下駄を履き、胸に鏡を吊して、丑三つ時(午前2時頃)に神社へ赴き、藁人形に五寸釘を打ちつけて相手を呪い殺すという呪法。この原型となったのが謡曲「鉄輪」に登場する嫉妬深い女性で、京都の貴船神社に丑の刻参りを21日間続け、ついには鬼女となったとされる。

アクセス:石川県金沢市香林坊