法蔵寺 累の墓
【ほうぞうじ かさねのはか】
法蔵寺には、後世に演劇の題材として取り上げられて有名となった「累ヶ淵」の伝承が残されている。この話は『死霊解脱物語聞書』という書物として江戸時代に流布しており、以下のようなあらすじとなる。
事件は、寛文12年(1672年)に羽生村の百姓・二代目与右衛門の娘である菊に霊が憑依したことから始まる。
菊に憑いていたのは、二代目与右衛門の最初の妻であった・累(るい)の霊であった。累の霊は、正保4年(1647年)に入り婿の二代目与右衛門によって川に突き落とされ殺されたことをはじめ、数多くの悪事を暴露した。そして自らの供養を求めて菊に取り憑いたのだと語った。そこで近くの弘教寺の住職・祐天が引導を渡し、累の霊は成仏した。
しかしその直後、再び菊に何ものかが取り憑いて怪事を引き起こした。祐天は再び取り憑いたものに問い質すと、助(すけ)と名乗る子供の霊であった。村の古老に尋ねると、助は累の異父姉にあたり、初代与右衛門の後妻・お杉の連れ子であったが、生来片目で手足が不自由であったために義父の初代与右衛門に疎まれ、慶長17年(1612年)にお杉によって、後に累が殺されたのと同じ場所で川に投げ込まれて殺されたのである。さらに、助の死んだ翌年に生まれた累は容貌が瓜二つと言ってよいくらい似ており、村人は累の容貌は助の祟りと噂し合っていたのであった。祐天は、この助の霊も成仏させ、60年にも及ぶ悪因縁を絶ったのであった。
法蔵寺の境内には、累の一族の墓がある。その正面には3基の墓がある。左より菊、累、助の墓とされる。また本堂にはこの3名と祐天上人の木像が安置されており、また祐天上人が死霊供養に用いたとされる数珠も保管されている。
<用語解説>
◆『死霊解脱物語聞書』
元禄3年(1690年)に出版された仮名草子本。ここに書かれた内容を元にして、四世鶴屋南北が歌舞伎「色彩間苅豆」を上演、また三遊亭圓朝が落語『真景累ヶ淵』をを発表している。
◆祐天
1637-1718。浄土宗の僧。法力によって悪霊を調伏する能力に優れていたと言われ、多くの霊験を残した。徳川綱吉とその母の桂昌院、徳川家宣らの信任篤く、幕命により有名寺院の住職を務める(弘教寺もその一つ)。増上寺36世として大僧正の位を授かる。その後、草庵を結んで隠居し(現在の祐天寺の始まり)、その地で没する。
アクセス:茨城県常総市羽生町