泣く木跡

【なくきあと】

現在の栗山町の歴史は、明治21年(1888年)に仙台藩士であった泉麟太朗によって入植をおこなわれたのを初めとする。その翌々年から、この地では幹線道路や鉄道路の開発がおこなわれた。これには市来知集治監の政治犯が多数駆り出され、寒さと飢えの中を酷使された。そのため多くの囚人が亡くなり、その遺体は掘削工事の進むトンネルのそばにある巨木の下に埋められたという。この巨木が伝説の“泣く木”である。

“泣く木”はハルニレの木で、樹齢は約300年ほどのものとされた。その不気味な名が流布しだしたのは昭和7年(1932年)である。室蘭本線の栗山トンネルに沿ってあった道路を拡張する工事が始められた頃、道路を直線にしようとすると邪魔になる木があった。ハルニレの巨木である。そこで伐採してしまおうとすると、その木がキューキューと音を立てる。それがまるで人が泣く声のように聞こえたために、噂が広まった。しかもこの巨木を鋸で挽こうとしてもなかなか伐れない。そのうち鋸が折れて大怪我をする者が出てきて、さらに引き抜こうと馬車を使ったところロープが切れて馬が即死、作業員も大怪我をする事故まで起きた。結局、この部分だけは道路を迂回して拡張せざるを得なくなったのである。

この事件の前後から「泣く木で首を吊った飯場の女」の怨念という噂も立った。この土地に流れてきた女性が、道路工事をおこなっていた飯場の飯炊きに雇われたが、作業員の慰み者にされた挙げ句それを悲観して首を吊ったというのである(後日、道内の霊能者の霊視によって、この女性は“上野キヨ子”という名であるという話まで広がった)。あるいは、昔、アイヌの娘が和人の若者と恋に落ちるが叶わず、二人してこの木で首を吊ったという話も現れた。“泣く木”の名は「伐ろうとすると祟りがある」という内容で、道内で知らぬ者はないほど有名になったのである。またこの部分だけカーブになっているせいもあるかもしれないが、自動車事故の多発地帯となり、死亡者も複数出ている。そして昭和29年(1954年)の洞爺丸台風の時に木の上半分が折れたが、地元の人々は怖れて手をつけることはしなかったという。

昭和45年(1970年)8月22日の夜。川の護岸工事と、道路の舗装工事がおこなわれていたさなか、工事の下請けで現場で寝泊まりしていた小林という若者が、酒に酔った勢いで15000円の賭のために、チェンソーで一気にこの木を伐り倒してしまったのである。倒された木は安全面を考慮して細かく切られた処分された。しかしこの木の切れっ端を自宅に持ち帰った者がその夜にうなされたとか、ストーブの薪として燃やした者が病気をしたり急死したりするという噂が流れた。またオカルトブームに乗って、この祟りの伝承は週刊誌などで全国的に知られるようになったのである。

かつて“泣く木”のあった場所には石碑が建てられ、おそらく“泣く木”の種子から育ったであろう若木が二代目として大切に育てられている。そして今もなお、国道234号線はこの木のあった部分を避けるようにカーブしたままである。

<用語解説>
◆“泣く木”の伝説
現在流布している話は昭和7年頃に成立したと考えられるが、この木の怪談めいた噂そのものはもっと古くからあったと考えられ、大正5年(1916年)に発行された『婦人倶楽部』にこの木の怪談が紹介されている。
そしてこの木の存在が全国的なものになるのは、上に挙げた通り、昭和50年(1975年)前後のオカルトブームの頃である。この時には強制労働で亡くなった囚人の話ではなく、飯場の女性の霊のなせる怪異であるとの紹介が圧倒的である。おそらく「泣く=女性の仕草」というイメージが先行したのであろう。
また木を伐った男性についての噂も喧伝され、伐った後しばらくして死亡したと紹介されていた。しかし『栗山・泣く木物語』(著:坂井菊二郎)によると、この男性はその後も生存しており、治療院の経営者として15年後に新聞で紹介されている。

アクセス:北海道夕張郡栗山町桜丘