東首塚・西首塚
【ひがしくびづか にしくびづか】
慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは「天下の分け目の戦い」と呼ばれる合戦である。関ヶ原の地に布陣した兵数は、東西両軍を合わせて約17万人。わずか半日の戦闘であったが、約8000人の死者が出たと言われている。
関ヶ原の勝者である徳川家康は現地で首実検をおこなった後、多くの遺体の処理を、この地を治める竹中重門に供養料千石を与えて命じた。そこで造られたのが東首塚と西首塚であるとされる。
東首塚のある場所には、家康が首実検した際に首級の汚れを落としたという首洗いの井戸があり、また昭和6年(1931年)に史跡に指定されて後に移築された護国院大日堂と唐門がある。対して西首塚は胴塚とも呼ばれ、あるいは東西両軍の武将に分けて葬られた首塚であるとも言われる(実際のところは、東西どちらの兵であったか分からない者が大半であったと伝えられる)。どちらの首塚もよく整備されており、今なお供養が丁重に執り行われていることが分かる。
関ヶ原は多数の死者が出た場所であり、この2つの首塚以外にも遺体を埋めた場所が複数あると推測される。実際、明治になって敷設された東海道線の工事の際に、多数の白骨が掘り出されたという記録も残されている。
◆関ヶ原の戦いの人数
参戦した兵力、戦死者の数については、当時から諸説あって定かではないのが事実である。上記に挙げた数値は旧帝国陸軍が編纂した『日本戦史 関原役』による。
◆竹中重門
1573-1631。父は豊臣秀吉の軍師であった竹中半兵衛。豊臣政権時より不破郡を所領としていた。関ヶ原の戦いでは、最初は西軍に属していたが東軍に鞍替えし、合戦の当日は黒田長政と合流して西軍と戦う。子孫はその後も関ヶ原一帯を領有し、6000石の旗本として幕末まで続く。
アクセス:岐阜県不破郡関ヶ原町関ヶ原