夜泣き石(会津)
【よなきいし(あいづ)】
会津若松の市街地から東へ行ったところ、国道49号線沿いに戸ノ口原という場所がある。幕末の会津戦争の折、会津軍と薩長軍が激突した古戦場であり、白虎隊が実戦で奮闘した地としても有名な場所である。このような古戦場の地にひっそりとあるのが“夜泣き石”である。
戦国時代、会津地方を蘆名氏が治めていた頃の話。無実の罪で処刑されようとした男の家族が、累が及ぶことを怖れ、夜陰に紛れて逃げようとしていた。途中ここまで来て、幼い男の子が疲れ果てて石の上で寝てしまった。母親はこの子を連れてこれ以上逃げることはかなわないと見て、捨て子にして死を免れさせようと思い立ち、この石の上に寝かせ付けたまま去っていった。その後目が覚めた子供は母恋しさに泣き叫ぶと、闇の向こうから母が呼ぶ声がする。喜び勇んで行こうとすると、なぜか身動きが取れない。足が石に吸い付いて前へ進めないのである。そのうちに朝となり、追っ手がこの石のところまでやって来た。しかし追っ手と思っていたのは、父親の冤罪を知らせるために来た者であり、男児はその後成人して家督を継いだという。実は、夜中に聞こえた母親の声は魔性の石が子供を食い殺すために発したものであり、その災難を救わんとするために子供の寝ていた仏性の石が足止めをさせていたというのが真相だったという。
実際にこの石には、幼い子供の足形と言ってもおかしくないくぼみがある。このリアルな物証が伝承を後押ししているのは間違いなく、子供を背負ってこの石にお参りすると夜泣きがなくなるという信仰の対象ともなっている。そして、このくぼみになぞらえるように、いつしか靴を奉納する習慣も出来ているようである。
なお、この石にまつわる伝承には、玄翁和尚と九尾の狐が登場するバージョンがあり、狐が化けた子供を背負った玄翁和尚がこの石で休んだところを襲われたが、法力で退治したという話も残されている。
<用語解説>
◆蘆名氏
源頼朝の奥州攻めに功績のあった佐原義連が会津の地を所領としたのが始まり。その後、蘆名氏を称する。16代当主の盛氏(1521-1580)の頃が最盛期となるが、没後に急速に衰退。1589年に伊達政宗との摺上原の戦いで当主・義広が実家である佐竹領へ逃散、戦国大名として滅亡する。
◆玄翁和尚
1329-1400。那須の殺生石を割ったことで知られ、この関係で九尾の狐との伝説が出来たものと考えられる。会津には玄翁和尚開山の寺院も多くある、九尾の狐にまつわる物件も複数存在する(出身地は越後、那須も下野なので、かなり近いエリアである)。
アクセス:福島県河沼郡河東町八田字大野原