観世寺 黒塚

【かんぜじ くろづか】

陸奥の 安達ヶ原の 黒塚に 鬼籠もれりと 聞くはまことか

平兼盛の歌で有名な“安達ヶ原の鬼婆”の伝承は、細部が多少違うものもあるがおおよそ次のような展開となる。

岩手という名の女性が、とある公家に奉公していた。その家の姫は幼い頃から不治の病であったために、岩手はその病を治すための薬を求めて各地を転々とした。その薬とは、妊婦の腹の中にある胎児の生き肝であった。やがて岩手は安達ヶ原の岩屋に潜み、標的となる妊婦が通りがかるのを待ち構えていた。

ある時、若い夫婦が岩屋に一夜の宿を求めた。女は臨月の身重、しかも夫は用事があってそばを離れた。岩手は女を殺すと、胎児の生き肝を取り出して遂に目的を果たした。しかしふと女の持ち物に目をやると、見覚えのあるお守りがあった。それは幼くして京に残した実の娘に与えたものであった。今自分が手に掛けた女が我が子であることを悟った岩手は、そのまま気が触れて鬼となった。そして岩屋に住み続け、旅人を襲ってはその肉を貪り食うようになった。

時が過ぎて神亀3年(726年)、紀伊国の僧・東光坊祐慶は旅の途中で日が暮れてしまったために、安達ヶ原の岩屋に宿を求めた。そこは岩手が鬼と化して住み着く場所であった。岩手は薪を拾いに行くので、奥を覗かないように言って外に出た。祐慶は気になって覗くと、そこには累々と人骨が積まれており、ここが安達ヶ原の鬼婆の住処であると気付いて逃げ出した。やがて戻ってきた鬼は、旅の僧がいないことに気付いて後を追い掛けた。鬼は僧を見つけると、恐ろしい速さに追いつこうとする。そしてもう少しで手が届くところとなり、祐慶はもはやこれまでと如意輪観音像を笈から取り出して経文を唱えた。すると、観音像が天高く飛びたつや、光明を放ちながら白真弓に矢をつがえて鬼婆を射抜いたのである。

その後、祐慶は鬼婆の危難を救った如意輪観音を本尊として真弓山観世寺を建立したのである。

観世寺の境内には鬼婆が住んでいた岩屋や、出刃包丁を洗ったとされる血の池など、鬼婆伝説の舞台が残されている。また宝物館には、鬼婆使用の出刃包丁などのおどろおどろしい道具や祐慶の使っていた錫杖などが展示されている。

観世寺から少し離れた川岸に「黒塚」と呼ばれる塚がある。ここが射殺されて成仏した鬼婆を葬った場所とされている。

<用語解説>
◆平兼盛
?-991。三十六歌仙の一人。兼盛自身は記録上、奥州へ足を運んだ形跡はない。

◆「安達ヶ原の鬼婆」伝説
上記の伝説は観世寺の寺伝であるが、その他にも、東光坊は偶然鬼婆の岩屋に泊まったのではなく退治を目的として安達ヶ原に赴いたという説や、鬼婆は殺されずに改心したりあるいは退散しただけという内容もある。また,関東にも類似の鬼婆伝説があり、一種の様式化された伝承であるとも言える。