正法寺 幽霊の墓

【しょうぼうじ ゆうれいのはか】

かつては境内裏手の山の中腹にあったとされるが、本堂への参道の途中に無縁墓群があり、その中央最前列に「即心即佛」と彫られた墓碑がある。これが“幽霊の墓”と呼ばれるものである。

保科正之が会津の藩侯であった時、阿蒲大郎左衛門という者があった。その妹が他家に嫁に行って間もなく兄が不慮の死を遂げ、さらに妹もじきに亡くなってしまった。妹は死の間際に実家の墓に葬って欲しいと懇願したが、願いは聞き届けられず婚家の墓に埋められた。

その葬儀の日から、実家の菩提寺である正法寺の二世斧山和尚の枕元に、その妹の幽霊が現れて「この寺に改葬して欲しい」と頼むようになった。その幽霊の執心ぶりに、和尚は婚家に事情を話して改葬を掛け合った。最終的に婚家も折れて改葬を認めたために、晴れて妹の亡骸は正法寺に引き取られたのである。その時に斧山和尚が建てた墓碑が“幽霊の墓”と呼ばれているのである。そしてそれ以降は幽霊は姿を現さなくなったと言われている。

<用語解説>
◆保科正之
1611-1673。父は二代将軍・徳川秀忠。庶子であったため、見性院(武田信玄の次女)に育てられ、その縁で旧武田家臣の高遠藩主・保科正光に預けられる。寛永20年(1643年)に会津藩主となる。

◆阿蒲大郎左衛門
会津藩の歴史逸話を集めた『志ぐれ草子』(1935年刊)では、幽霊の兄は、安武(阿武)大郎右衛門という、保科正之の小姓役で150石取りの藩士であるとされる(大郎左衛門と誤記されることが多いとの註あり)。大郎右衛門は承応元年(1652年)1月に惨殺されており、その兄の死後、妹が回向料代わりに大石を置いて帰ったと記されているので、上の怪異譚はおそらく承応年間の出来事であろうと推察できる。
ちなみに大郎右衛門が殺された理由は、町野権三郎という青年を巡っての衆道の痴情によるもの。そのせいか、大郎右衛門は殺害後に顔の皮を剥がれ、肛門から喉まで刀で刺し貫かれるという姿で放置されていたと伝えられる。また殺害した側の4名が切腹。そのうち鮎川市左衛門の許嫁であった千女は「二夫にまみえず」として17歳で自害したため、貞女の鑑として会津藩の子女の崇敬を集めた。

アクセス:福島県会津若松市東山町大字石山