北ノ庄城址 柴田神社

【きたのしょうじょうし しばたじんじゃ】

天正3年(1575年)、越前の一向一揆を鎮圧した柴田勝家は、織田信長より越前国を与えられると、対北陸制圧の拠点として北ノ庄に居城構えた。これが北ノ庄城である。天守は九層であったと言われ、安土城に匹敵する巨城であったとされる。だが、この城は完成を見ないまま落城する。

本能寺で織田信長が弑されると、逆臣の明智光秀を討った羽柴秀吉が台頭、筆頭宿老であった柴田勝家と対立するようになる。元来仲の悪かった両将は対立、雌雄を決せざるを得ない状況となる。そして織田家の家督争いをする次男の信雄と三男の信孝の争いも相まって、遂に天正11円(1583年)賤ヶ岳の戦いが始まる。一旦岐阜平定に兵を動かした秀吉の隙を突いて勝家軍は攻勢に出るが、秀吉はわずかの時間で取って返して激戦となる。ところが、ここで勝家の与力であった前田利家が戦線離脱したため,形勢は一気に秀吉に有利となり、勝家軍は総崩れとなり、北ノ庄へ退却したのである。

北ノ庄への退却の折、勝家は敗北の原因を作った前田利家と直接対面している。しかし勝家は利家に対して長年の与力への謝意を示したものの、決して恨み言の一つも漏らさなかったと伝えられる。さらに秀吉に降って、北ノ庄攻めの先陣を買って出るように勧めたともされる。また北ノ庄へ戻ってからも、妻のお市の方や家臣に対して生き延びるよう諭したという。だが、お市の方をはじめ、近臣は勝家と運命を共にすることを選んだのである。

賤ヶ岳の敗戦から3日後、羽柴軍は北ノ庄に攻め入った。勝家は、お市の方を一突きで手に掛け、自ら腹を十文字に掻き切って果てた。そして北ノ庄城は灰燼に帰したのである。

北ノ庄城の跡地に、その後福井城が建てられたが、城内に勝家とお市の方を祀った小祠があったと伝わる。明治23年(1890年)、市民らの発意によって、その小祠のあった場所に建てられたのが柴田神社である。現在ではお市の方の娘を祀る三姉妹神社やゆかりの人物の像が建てられている。

<用語解説>
◆柴田勝家
1522?-1583。織田家の宿老。信長家中の軍事の要とされ、その武勇から“鬼柴田”と称せられた。北ノ庄領有後は主に対上杉の攻略に従事、本能寺の変の直後も戦闘状態のために京都へ戻れなかった。

◆お市の方
1547-1583。織田信長の妹。はじめ近江の浅井長政に嫁ぎ、3人の娘(後の豊臣秀吉側室の淀君、京極高次正室の常高院、徳川秀忠正室の崇源院)を生む。浅井家滅亡時は娘と共に城を出る。本能寺の変後に柴田勝家に嫁ぐ。

アクセス:福井県福井市中央1丁目

福井

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