業平塚の五輪塔

【なりひらづかのごりんとう】

愛知県内には在原業平の東下りにまつわる伝承地があるが、この業平塚もそのうちの1つである。

東国へ下った業平は、しばらくこの地に留まった。その噂を聞きつけた女官のあやめは、業平のことを慕って都からはるばる追い掛けてきた。それに対して、何故か業平は女官に見つかりそうになった時に、椎の木に登って身を隠したのである。ところが、木に登った業平の姿は、井戸の水面に映し出されていた。目ざとくそれを見つけたあやめは、歓喜のあまり我を忘れて井戸に飛び込んでしまい、そのままで溺死してしまった。

業平はこの憐れな女官にひどく同情し、この地に終生留まったとされる。そしてその死後、業平・あやめ・その従者を供養するための五輪塔が建てられたという。左側に一基だけ離れてあるのが業平塚と呼ばれる、業平の供養塔。右側に固まってあるのが、あやめとその従者の供養塔であるとされる。

この供養塔は、この土地の領主であった藤原道武が、非業の死を遂げたあやめのため、さらにこの地に留まり亡くなった業平のために造ったとされる。そしてこの塚の近くには、業平を開基として、道武が再興した宝珠寺があり、業平の守り本尊である観音菩薩や業平の位牌などが安置されている。

<用語解説>
◆在原業平
825-880。阿保親王(平城天皇の第一皇子)の子であったが、臣籍降下。六歌仙の一人に数えられ、和歌の才に長けていた。また美男の典型とされ、『伊勢物語』の主人公のモデルとされている。伝説の下敷きとなった“東下り”については『伊勢物語』上のフィクションとされ、実際には行われていなかったこととされる。

◆藤原道武
生没年不詳。秦道武とも。土地の名を採って“富田殿”と呼ばれていた。融通念仏宗(大阪の大念仏寺を総本山とする)の開祖である良忍(1173-1132)は実子である。

◆宝珠寺
現在は曹洞宗の寺院。はじめは業平塚に隣接する地にあったが、江戸時代に現在地に移転する。現在地は富田城跡であり、藤原道武が居を構えていた地であるとされる。

アクセス:愛知県東海市富木島町外面