福島正則荼毘所跡

【ふくしままさのりだびじょあと】

豊臣秀吉子飼いの武将として頭角を現し、関ヶ原の戦いで徳川方に加わって手柄を立て、ついに広島50万石の大大名にまでなったのが福島正則である。だが豊臣恩顧の大名として幕府から危険視されたためか、武家諸法度で禁じられた無許可の城の改修を咎められ、正則は信濃国など45000石への減転封の処分を受けた。これが高井野藩の始まりである。

正則はこの処分に伴って剃髪隠居をして嫡男を藩主としたが、その嫡男の忠勝は翌年に急死。正則は25000石を返上して藩を存続させたが、寛永元年(1624年)正則も死去するに至る。そしてこの時にまたも法度に反する行為があったとして、高井野藩は改易となる。正則死去を受けて幕府は検死役を派遣したが、家臣達はその到着を待たずに主の遺体を荼毘に付してしまったのである。一説では、死去が夏の暑い盛りであったため腐敗が進み、やむなく荼毘したとされる。だが、正則は自ら腹を切って自害したため、検死でそれが発覚するのを怖れたため早々に荼毘に付したのだとの噂も残っている。いずれにせよ、不測の事態があったと考えられている。

福島正則の遺体を荼毘に付したとされる場所が今でも史跡として残されている。高井野藩の陣屋(屋敷)跡から北へ約500m程の田の中にあるその地には、石碑や案内板と共に一本の杉の木が生えている。昭和9年(1934年)の室戸台風で倒木するまでは、そこには幹周り9m、高さ30mにも及ぶ杉の巨木がそびえ、“一本杉”あるいは“化け杉”」と呼ばれていた。その姿は、西へ約15km離れた長野善光寺あたりからも見ることが出来たと言われる。そしてこの木には正則の無念を想起させる奇怪な伝説が残されている。

この杉は高井野藩を短いながらも善く治めた正則に対して、領民が荼毘の後に目印として植えたとされる。だがこの木が成長するにつれ、奇怪な噂が流れる。枝を払ったり、あるいは幹の皮を剥がしたりすると、真っ赤な血が木から流れ出るというのである。そのため村人は伐ることを怖れ続けたという。

しかしそれをさらに上回る怪異の伝説が残されている。福島正則の葬儀の時、空がにわかに曇ると突然黒雲の塊が下りてきて、正則の遺体が入った棺を覆った。そして黒雲はみるみる形を変えて鬼の姿となるや、棺から遺体を掴み出すと、そのまま宙へ舞い上がっていった。しばらくして空から降ってきたのは、正則のものと思われる片腕。人々は恐れおののいたが、やがてその片腕は杉の木に変じ、“一本杉”に成長したのだという。それ以降伐ろうとするとどこからともなく唸り声が聞こえたり、実際伐ると幹から血が流れたされる。

<用語解説>
◆福島正則
1561-1624。母が豊臣秀吉の伯母(叔母)に当たることから仕える。賤ヶ岳の戦いで一番槍の殊勲を立て、その後も武功を挙げる。秀吉の死後は、同じ子飼いの石田三成と対立し、徳川家康に近づく。関ヶ原の戦いでは、徳川方に属する豊臣恩顧の大名の代表格として戦いを有利に進める働きを見せる。しかし豊臣家に対する忠心は終生持ち、徳川幕府に対してなびくことはなかったとされる。

◆その後の福島氏
正則の死後藩は改易となったが、福島氏は忠勝の同母弟・正利が跡を継ぎ、翌年父の旧領から3000石分を与えられ旗本となった。しかし寛永14年(1638年)に正利が亡くなると無嗣断絶。その後天和元年(1681年)に正則の曾孫(忠勝の直系孫)が2000石の旗本として取り立てられ、名跡が復活した。

◆倒木後の一本杉
室戸台風で倒木した翌年には新しい杉の木が植えられた。ところが、まもなく何者かによって引き抜かれる事態となり、戦後に至るまでの間それが繰り返されたという。風聞では、今まで田の真ん中に巨木があったため日当たりの悪い田がいくつもあり、再び同じように成長することを怖れた者が妨害したのだろうとされた。一本杉が長年畏怖されてきた存在であったことを示す逸話である。

アクセス:長野県上高井郡高山村高井