高国寺 近藤勇墓所
【こうこくじ こんどういさみぼしょ】
町名から分かる通り、このあたりは米沢の城下町で鍛冶職人が集まっていた場所で、高国寺はそこに永禄9年(1566年)に創建された、曹洞宗の古刹である。この寺の参道にあるのが、新撰組局長の近藤勇の首が葬られたという墓碑である。近藤勇の生涯においてほぼ無縁と言って間違いない米沢の地に何故首級が葬られているのかは、次のような経緯があるとされる。
首級を米沢に運んできたのは、近藤勇の従兄弟に当たる近藤金太郎という人物である。金太郎は武蔵国入間郡金子村の生まれで、家伝によれば金太郎の実母が勇の養父・周助の妹とされる(ただし周助側からは確認されていない)。金太郎は長じて上野国桐生で織物の修行をした後、万延元年(1860年)に米沢に移住、慶応4年(1868年)当時織物商を営んでいた。
近藤勇が板橋刑場で斬首となった4月25日、金太郎は商売の関係で江戸に出てきて、たまたま板橋で投宿していた。そこで勇の処刑を知った金太郎は、当日夜半、獄門台に置かれていた勇の首を持ち去り、赤羽の河川敷で荼毘に付したという。そしてそのまま10日掛けて米沢まで遺骨を運び、家の墓所と定めていた高国寺に密かに埋葬したのである。
この伝承は、金太郎の孫にあたる近藤利三郎が、祖父や父から聞いた話として覚書をまとめたものを、板橋在の郷土史家・浅沼政直が昭和63年(1988年)に発表した『秘録 近藤勇と初代軍医総監松本良順』によって公に知られるようになった。現在では寺の門前に案内板が置かれ、参道や場碑周辺には多くの幟がはためいて、知る人ぞ知る幕末関連の遺跡となっている。

<用語解説>
◆近藤勇
1834-1868。百姓・宮川久次郎の三男として出生。嘉永2年(1849年)、天然理心流三代宗家の近藤周助の養子となり、その後四代宗家を継ぐ。文久3年(1863年)浪士組に参加して京都へ、その後新撰組局長となる。
◆近藤勇の首級
史実としては、板橋刑場で斬首となった近藤の首級は、その後塩漬けにされ京都三条河原で晒し首になったが、その後は行方知れずとなる。
一説では、首級は盗まれて京都の寺から愛知県岡崎市の法蔵寺に納められ、現在も境内に首塚が残される。
日本伝承大鑑「法蔵寺 近藤勇首塚」:https://japanmystery.com/aiti/hozoji.html
また福島県会津若松市の天寧寺にも首塚が残っており、三条河原から何者かが会津まで持ち運んだとも、あるいは土方歳三が近藤の遺髪を埋めたとも言われる。
なお近藤の胴体は、一旦板橋に埋められたが、数日後に親族が掘り起こして三鷹市の龍源寺に葬られている。
アクセス:山形県米沢市鍛冶町