敦盛塚

【あつもりづか】

『平家物語』の中でも最も有名な逸話であり、諸行無常の念を強くさせるのが、平敦盛の最期の場面であろう。

寿永3年(1184年)の一ノ谷の合戦は、源義経の奇襲によって勝敗を決した。不意を突かれた平家軍は堪えきれず総退却、舟で沖へ敗走し始めた。先陣を切ったものの戦功を挙げることが出来ずにいた源氏方の熊谷直実は、馬で沖の舟まで辿り着こうとする一騎の武者を見つけた。身なりからいって平家の公達であることは間違いない。直実が声を掛けると、敵将も引き返して一騎打ちとなった。

直実は歴戦の強者、またたく間に敵将を馬から引きずり下ろして組み伏せた。そして首を切ろうと相手の顔を見ると、まだ幼さが残る若者であった。ちょうど自分の息子と同じぐらいに見えた。直実が名を尋ねると、若者は「名乗りはしない。首実検すればわかること」と答える。殺すに忍びないと、逃がそうと考える直実。しかし味方の騎馬が近づいており、ここで敵将を助けたならば、武士として恥ずべき裏切り行為を犯すことになる。後世の供養を誓うと、涙ながらに直実は若者の首を取ったのである。そしてその腰にある笛を見て、敵陣から聞こえてきた笛を吹いていたのがこの若者であると気づき、戦の世の無常を悟るのであった。

一ノ谷の古戦場のそば、国道2号線に面したところに大きな五輪塔がある。これが平敦盛の胴塚とされる敦盛塚である。高さ3.5mという大きな塔であり、室町時代に供養塔として建てられたとされる。一方、敦盛の首は実検を終えると近くの須磨寺に葬られ、その境内に首塚が建てられている。また、須磨寺には敦盛が身につけていた名笛・青葉の笛が収蔵されている。

<用語解説>
◆平敦盛
1169-1184。父は平経盛。平清盛の甥にあたる。従五位下に叙せられるが官職につかなかったため、無官大夫と呼ばれた。笛の名手とされ、愛用の青葉の笛は、祖父の平忠盛が鳥羽院より下賜されたものである。この一ノ谷の合戦が初陣であった。なお2人の兄(経正・経俊)も一ノ谷の合戦で討死している。

◆熊谷直実
1141-1207。武蔵国熊谷の御家人。源頼朝の挙兵直後より源氏方となり、各地を転戦する。一ノ谷の合戦で平敦盛を討ち取る功績を挙げるが、同時に戦いの無常を知り、徐々に仏門への帰依の念を強めていったとされる。建久3年(1192年)に相続争いの裁定を不服として出奔、翌年、浄土宗開祖・法然の弟子となって出家、名を蓮生とする。その後は浄土宗の普及に努める。

◆須磨寺
仁和2年(886年)建立。一ノ谷の古戦場の近くにあり、平敦盛の首塚をはじめ、源平合戦ゆかりの寺として有名。最近では、境内の庭に敦盛と直実の逸話をモチーフとした銅像も造られた。

アクセス:兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町