雉子畷

【きじなわて】

大阪の長柄橋に残る人柱伝説にまつわる伝承地である。

嵯峨天皇の弘仁3年(812年)とも、推古天皇の21年(613年)であるとも言われる。長柄橋の架橋工事は困難を極め、とうとう人柱を立てることとなった。しかし人選がなかなか決まらないために、垂水に住む長者の巌氏(いわじ)に相談したところ、「袴に継ぎのある者を人柱にすればよい」という話でまとまった。ところが、袴に継ぎのある人物は、巌氏自身しかいなかった。このため、言い出した巌氏が自ら人柱となる羽目になったのである。そしてこの人柱によって、長柄橋はようやく完成となった。

巌氏の娘に光照前(てるひのまえ)という者があった。父が人柱になって以降、人前で口をきくことがなくなってしまった。その娘が請われて河内国禁野の徳永家へ嫁したのであるが、婚家でも一切口をきかないためについには実家へ帰されることになる。

夫に連れられていく途中、どこからか雉の鳴き声がする。その声を手掛かりにして、夫は持っていた弓矢で雉を射殺した。それを見た時、光照前は悲しみのあまり

ものいわじ 父は長柄の 橋柱 雉も鳴かずば 射られざらまし

と詠ったのである。それを聞いた夫は、妻が口をきかなかった真意を悟り、実家へ送り帰すことなく、二人して我が家へと戻ったという。そしてその時に射た雉を埋めたというのが、この雉子畷のあたりであるとされる。また光照前は夫に先立たれた後に出家して不言尼と名乗り、父の菩提を弔ったという。

この伝承が後の「雉子も鳴かずば撃たれまい」という諺の由来の一つとなったと伝えられる。

アクセス:大阪府吹田市垂水町