観音寺 百叩きの門

【かんのんじ ひゃくたたきのもん】

豊臣秀吉の隠居所として建てられた伏見城であるが、慶長の大地震と関ヶ原の戦いの前哨戦(伏見城の戦い)によって初期の建築物は灰燼に帰したとされる。しかし徳川家康によって再建され、元和9年(1623年)に廃城となるまで、京都と大阪の中間にある要衝として機能した。そして廃城後、城は解体され各地の築城や寺社建築に流用されることとなったのである。

慶長12年(1607年)に一条室町に創建されたとされる観音寺であるが、その後の大火によって記録が失われ、現在地にいつ頃移転されたかなどは不明である。ただこの寺の山門は伏見城の遺構と伝えられており、その由来と伝承は少々奇怪なものである。

山門の扉はクスノキの一枚板から出来ているのだが、伏見城において牢獄の門として使用されていたと伝えられる。罪人は釈放される時に、この門前で刑罰の一つである“百叩き”を受けて解き放たれたと言われ、そのためにこの門は“百叩きの門”と呼ばれるようになったという。

さらに伝説では、移築されて間もなく、夜にこの門前を通ると、どこからともなく人の泣き声が聞こえたという。そのために夜間に人通りが絶えてしまった。住職が調べてみると、門に造られた潜り戸が風のせいで自然に開け閉めされ、それが人の泣き声のように聞こえることが分かった。しかし住職はそれを門前で処罰された罪人の恨みがなすものであると考え、100日間の念仏供養の末に泣き声を封じたとも、あるいは潜り戸を釘で打ちつけて開かなくしてしまったという。

山門は現在も残っており、“出水七不思議”の1つとされる。ただし泣き声を耳にする者は既にない。

<用語解説>
◆出水七不思議
出水六軒町通から七本松通までの周辺にある七不思議。光清寺の浮かれ猫絵馬、華光寺の時雨松、観音寺の百叩きの門、地福寺の日限薬師、五劫院の寝釈迦、極楽寺の二つ潜り戸、善福寺の本堂。

アクセス:京都市上京区七本松出水下ル三番町