岡益の石堂

【おかますのいしんどう】

岡益の石堂の姿は、風化を防ぐために覆屋の内にあって全容が見えない状態であるが、台石の中央にすっくと立つエンタシスの柱と、さらにそれを四方から囲む壁面から成る。さらに忍冬の紋様などが彫られており、東アジア圏の文化の影響を色濃く残している。だが、日本はおろか朝鮮や中国にも類例を見ないその容姿は、その建築目的すら想像できないほど奇異である(地元の研究者によると、仏教文化との関連性が強いのではないかとのこと)。

この構造だけでもミステリアスなのであるが、それに輪を掛けるようにこの建造物は安徳天皇の“陵墓参考地”として宮内庁の指定を受けているのである。安徳天皇といえば、1185年に壇ノ浦の合戦で入水して亡くなったとされている。だが平家の落人伝説と同じように、安徳天皇も海中から救い出されて、隠れ里のような土地に住み着きそこで亡くなったという伝説が各地に伝わっている。その中の一つが、この石堂なのである。結局のところ安徳天皇はこの地でも夭逝している。病死だったらしい。

この岡益の石堂から2キロほど離れた場所に「新井(にい)」という集落がある。そこには“新井の岩舟”という 古墳がある。伝承によると、これが安徳天皇の祖母で、同じく壇ノ浦で入水したはずの二位の尼の墓であると言われている(単に“新井=二位”ということらしいが)。どうやら安徳天皇の一行は、全てこの地で終焉を迎えたことになっているようである。

ただし、岡益の石堂は7世紀頃のものであり、新井の岩舟も古墳時代のものであると確認されている。それ故に、これらの遺物が学術的に安徳天皇にまつわる伝説と結びつくということはほとんどない。

<用語解説>
◆安徳天皇
1178-1185。第81代天皇。祖父は平清盛。2歳で即位したため、実権は平氏一門が握っていた。最期は壇ノ浦の戦いで、祖母である二位の尼に抱かれて入水。遺体は翌日引き上げられるが、密かに落ち延びたとする伝承が西日本一帯で伝えられる。

◆二位の尼
1126-1185。平清盛の妻、平時子。宗盛・知盛・徳子(建礼門院)の母。清盛と共に出家。従二位の官位を授かっているため「二位の尼」と呼ばれる。清盛死後は平氏一門の支柱となるが、最期は壇ノ浦の戦いで、安徳天皇を抱えて入水。

アクセス:鳥取県鳥取市国府町岡益