弁慶岬

【べんけいみさき】

源義経北行伝説の1つに数えられる場所であり、岬の入り口には約5mの高さの弁慶の銅像が立っている。

平泉を脱出し、さらに三厩から蝦夷地(北海道)へと渡った義経主従であるが、その地でアイヌの人々交流しつつ再起を図ろうとしたとされる。伝説では、この岬のあたりに義経主従がしばらく滞在し、毎日のように弁慶が岬から海を見ていたという。弁慶の舎弟となる常陸坊海尊が、義経再起のための兵を集め、蝦夷地へ船でやって来る手筈となっており、その船が来るのを待っていたのである。しかしその船が訪れることはなく、結局義経主従はこの地を離れ、さらに北の雷電岬を目指して去ったという。

なおこの岬一帯は、その地形からアイヌの言葉で“破れたところ”を意味する“ペル・ケイ”と呼ばれており、その名を和人が“べんけい”と発音したことから、義経伝説と繋がったのではと言われている。

<用語解説>
◆源義経北行伝説
源義経主従は平泉で死んだのではなく、身代わりを立てて逃亡して蝦夷地(北海道)を目指して行ったという伝説。平泉以北に複数の義経ゆかりの寺社がある。
さらに義経一行は蝦夷地から中国大陸へ渡り、その後チンギス・ハンとなったという伝説もある。

◆常陸坊海尊
生没年不明。比叡山または三井寺の僧で、源義経の家臣。義経が自害した衣川の戦いの際に留守をしていて助かった、義経の命で遺児を匿って逃げ落ちた、不老不死の仙人となって人知れず山中に住まった、江戸時代の初めに残夢という名の僧として世に現れたなど、義経主従の中で唯一別行動を取って生き延びた人物として伝えられる。

アクセス:北海道寿都郡寿都町政泊町