慈眼院 澤蔵司稲荷

【じげんいん たくぞうすいなり】

澤蔵司稲荷は、小石川の傳通院の護法神とされ、慈眼院はその別当寺である。

元和4年(1618年)、傳通院の学寮に澤蔵司と名乗る僧が、浄土宗を学びたいと言って入寮してきた。澤蔵司は非常に秀才で、わずか3年ほどで浄土宗の奥義を学び取ったのである。

そして元和6年(1620年)5月7日、学寮長の極山和尚と傳通院住職の郭山和尚の夢枕に澤蔵司が立った。澤蔵司が言うには「私は、太田道灌が江戸城築城の折に勧請された稲荷神であるが、浄土宗の奥義を学びたくこの地に現れ、その願いは達せられた。これからは神に戻り、当山を守護し、所願を満足させよう。早く一社を建てて欲しい」とのこと。郭山和尚は早速稲荷社を建立し、澤蔵司稲荷としたのである。

境内には霊窟とされる“お穴”があり、戦時中の空襲の際にも延焼を免れ、江戸期からほとんど変わることなく神秘的な雰囲気を保っている(天保7年(1836年)に出された『江戸名所図会』にもその存在が描かれている)。

そして澤蔵司の逸話で最も有名なものが“蕎麦”の話である。修行僧時代の澤蔵司は、傳通院門前の蕎麦屋によく通っていたと言われ、来た日には売り上げの銭の中に何枚かの木の葉が入っていたとされる。また蕎麦を持って帰る澤蔵司の後をつけていった店の主人が狐であることを悟ったため、澤蔵司は正体を明かして寺を去ったともされる。

この蕎麦屋は現在でも「稲荷蕎麦 萬盛 総本店」という名で営業しており、欠かすことなく初釜の蕎麦と天麩羅を神棚にお供えしている。

<用語解説>
◆傳通院
開山は応永22年(1415年)。その後の慶長7年(1602年)、徳川家康の母・於大の方が亡くなった時に遺骨を埋葬したため、徳川家の菩提寺となった(この時に、於大の方の法名である傳通院に名を変えている)。その際、徳川家康から住職に指名されたのが郭山和尚である。

アクセス:東京都文京区小石川