石塔寺

【いしどうじ】

山号は阿育王(あしょかおう)山。本堂から長い階段を昇った丘の上に10000基と言われる石仏群があり、その中心部に高さ8mの見慣れぬ形の石塔が建つ。重要文化財に指定される、阿育王塔と呼ばれる石塔であり、これが山号寺号の由来であることは言うまでもない。

学術的な見地から見ると、朝鮮半島に良く似た形のものが存在しており、また百済滅亡後に多くの渡来人がこの地域に定住したことが分かっているため、おそらく故郷を偲んで建てられたものだろうと推測されている。だが一方で、この石塔については次のような伝説が残されている。

『源平盛衰記』巻第七によると、出家して宋に渡った寂照(大江定基)が清涼山(五台山)を訪れた時、寺僧が毎朝池の周りを回るのを不思議に思って尋ねた。寺僧が答えるには、インドのアショカ王が造った84000基の仏塔の1つが日本の近江国に飛んでいき、日本に朝日が昇る時に池にその影が映るので、その影を拝むために回っている。寂照は感激して子細をしたためると、海に流したのである。そしてそれが日本に流れ着くと、さっそく一条天皇が命じて探し当てさせたのがこの石塔であり、その時天皇によって山号寺号が付けられている。

<用語解説>
◆石塔寺
創建は聖徳太子とされ、近江に建てた最後の寺院ということで本願成就寺と呼ばれていたという。その後上記の逸話もあって隆盛を極めたが、織田信長の焼き討ちに遭って衰退した。

◆アショカ王
BC304-BC232。マウリヤ朝第3代の王。伝説によると99人の兄弟を殺し、500人の大臣を殺し、通ったところは全て焼き払われて草木一本すら残らないなどの残虐なおこないをしていたが、改心して深く仏教に帰依すると「ダルマ(法)の政治」を掲げて善政を敷いたとされる。また釈迦入滅の地を訪れ、8本の塔のうち7本から仏舎利を取り出して84000基の仏塔に分納したともいわれる。

◆寂照
962?-1034。俗名は大江定基。三河守として赴任中に最愛の女性を亡くし、しばらく遺体と共にいたが、その死臭に愛想を尽かして発心に至った。出家後の長保5年(1003年)に宋へ渡り、皇帝から紫衣と大師号を賜う。最後は帰国が叶わず、杭州で客死。

◆一条天皇
980-1011。第66代天皇。在位は980-1011。

アクセス:滋賀県東近江市石塔町