龍王宮秀郷社/雲住寺 百足供養堂

【りゅうおうぐうひでさとしゃ/うんじゅうじ むかでくようどう】

近江八景の1つに数えられる景勝地であり、京の都にとって軍事上の要衝でもある瀬田唐橋にまつわる伝説で最も有名なものは、俵藤太の百足退治である。これにまつわる伝承地が唐橋の東端にある龍王宮秀郷社と雲住寺である。

瀬田唐橋あたりの水底には龍王が住んでいるという言い伝えがあり、唐橋の掛け替えの際に、一旦龍王を陸上にある社殿に移して工事をすることとして永享12年(1441年)に創建されたのが龍王宮である。祭神は龍王の娘である乙姫。この時に瀬田唐橋は現在地に移転している。

さらに時代が下って寛永10年(1633年)になって、龍王宮の隣に建てられたのが秀郷社である。祭神は俵藤太こと藤原秀郷。建てたのは、藤太の子孫にあたる、当時松山藩主であった蒲生忠知である。

さらにこの神社の隣にあるのが、雲住寺である。創建は応永15年(1408年)、蒲生郡に城を構えていた蒲生高秀によって建てられている。高秀も俵藤太から数えて15代目の子孫であり、先祖の功績のあった場所に追善供養のために寺院を建立したのである。さらにこの境内には百足供養堂があり、藤太によって退治された百足を供養している。この地に伝説の当事者が全て祀られているという格好になるわけである。

俵藤太は武勇誉れ高き武将であったが、ある時、瀬田の橋に大蛇が現れて往来の妨げとなっているのを聞いた。行ってみると、橋の真ん中で大蛇がいる。しかし藤太は意に介さず、大蛇の背を踏みつけて悠々と橋を渡ったのである。すると突然目の前に乙女が現れた。乙女は橋の下に住む龍神であり、今、三上山を七巻半もする大百足によって苦しめられているので、その武勇を持って退治をしてほしいと懇願した。それを聞いた藤太は承諾し、早速3本の矢を持って百足退治に繰り出した。

闇夜の中を巨大な2つの火の玉が迫ってきた。それが大百足の目であると悟った藤太は、火の玉の間を狙って矢を放った。しかし矢は百足に命中するが、その身体は鎧よりも硬く、はじき返されてしまった。最後の矢をつがえる前に、藤太は矢の先を口に含んでたっぷりと唾をつけると、渾身の力で百足を狙った。すると矢は見事に百足の眉間に刺さり、遂に退治に成功したのである。

その後龍宮を訪れた藤太は、龍王より一俵の米と一反の布、そして立派な釣り鐘を褒美としていただいた。米と布は使ってもなくなることのないものであり、不自由なく暮らすことが出来るようになった。また釣り鐘は三井寺に納められ、名鐘として長く伝えられたという。

<用語解説>
◆俵藤太
生没年不詳。歴史上の名は藤原秀郷。俵の苗字は「田原」という土地を領有していたために名乗ったものであり、藤太の名は「藤原一族の長子(太郎)」という意味である。藤原北家の魚名流の末裔とされるが、実際は下野国の土豪ともされる。関東で乱を起こした平将門を討った功により下野守・武蔵守、鎮守府将軍となる。
百足退治の伝説は、室町時代に成立した『俵藤太物語』によって完成。前半は百足退治の話、後半は平将門征伐の話となる。将門討伐の際、龍神が将門の弱点を教え、三井寺の本尊の加護があったことなどが描かれる。
秀郷社の説によると、百足退治の伝説は、平将門の乱を制した史実のアナロジーが多分に含まれているともされ、大百足は京都へ攻め上ってきた将門とその大軍勢であるとしている。特に象徴的な部分は、大百足も将門も藤太によって同じ箇所を射抜かれて倒されている点である(上の紹介では眉間。この神社では左目としている)。また瀬田唐橋のある近江国は、当時の行政区割りでは東山道に属しており、藤太が本拠として将門と戦った下野国と同じエリアにあたる。

◆蒲生氏
藤原秀郷を祖と称する一族は多くあり、蒲生氏もその中の1つである。蒲生氏は戦国時代に南近江の六角氏の客将となり、さらに賢秀・氏郷親子の時代に織田信長に仕える。
その後も徳川幕府の大名として存続するが、寛永11年(1634年)に蒲生忠知の死去に伴い、無嗣廃絶となっている。ちなみに蒲生氏郷の養妹が南部家へ嫁ぐ時にも「先祖が百足退治に使った矢の根」を持参しているとの記録があり、秀郷の子孫であることを非常に意識していたことが分かる。

◆三上山
滋賀県野洲市にある山。近江富士の名を持つ。頂上には磐座とされる巨石があり、孝霊天皇の御代には祭祀が執りおこなわれていたとされる。麓には名神大社の御上神社がある。

◆三井寺の釣り鐘
近江八景の1つ「三井の晩鐘」として数えられる。初代の鐘は、後に弁慶が強奪して比叡山へ引きずり上げて持ち運んだ。しかし撞くと「いのう(帰ろう)」と音がするので、怒った弁慶が谷底へ投げ捨ててしまい、多くの傷痕が付いてしまったという伝説を持つ。

アクセス:滋賀県大津市瀬田