大織冠神社

【たいしょくかんじんじゃ】

大織冠は、大化3年(647年)に制定された冠位の中で最上位のものである。約40年ほどだけ使用された冠位であるが、この官位を授けられた人物は歴史上ただ一人、藤原鎌足のみである。それ故に「大織冠」の名は、藤原鎌足の別称となっている。

鎌足は亡くなると、所領のあった摂津の安威に埋葬されたと言われている(後に大和の多武峰に改葬されたとされる)。その埋葬地と目されたのが「将軍塚」という古墳であり、江戸時代にはここに祠を建てて崇拝した。子孫である九条家は毎年使者を送り、反物2000疋を奉納していたとされ、正式な藤原鎌足の埋葬地と認められていた。その後に古墳は宅地造成のために取り壊されたが、石室などは移築され、現在でも祠は横穴式の石室の奥に安置されている。

昭和9年(1934年)、京大の地震観測所工事の際に発見された阿武山古墳から、多くの装飾品が納められた男性の人骨が見つかった。皇族の可能性が高かったため埋め戻されたが、昭和57年(1982年)に被葬者のX線写真の存在が明らかになり、調査の結果、重篤な骨折箇所があり、金糸の冠を着用していたことが判った。これらの状況から、この阿武山古墳に葬られた人物が藤原鎌足である可能性が非常に高くなったのである。しかしそのような結果にもかかわらず、大織冠神社は藤原鎌足古廟として今なお崇められている。

<用語解説>
◆藤原鎌足
619-669。生前は中臣鎌足と称す。中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我氏を滅ぼし、政権の中枢に入る。死の直前に天智天皇より、藤原の姓と大織冠を授けられる。

アクセス:大阪府茨木市西安威