平清経の墓

【たいらのきよつねのはか】

平清経は、平清盛の嫡男・重盛の三男である。要するに平清盛直系の孫にあたる。平家の公達の中でもとりわけ目立つ存在であったといっても間違いなかろう。

清経は、以仁王の挙兵に対して追討軍を率いて三井寺に侵攻、また翌年の墨俣川合戦でも武功を挙げており、平家の主力の一人であった。寿永2年(1183年)4月には、左近衛権中将の位にまで上がっている。ところが、その年の7月に木曽義仲が京へ攻め上るとの知らせを受けて、平家一門が都落ちをしてから、清経の人生は一気に転落する。

九州にまで落ち延びた平家は大宰府に留まり、筑紫に内裏を造営しようとする。しかし、かつて重盛の家人であった、豊後の緒方惟栄が叛旗を翻して九州の兵を集めて攻め入るとの知らせが入る。ついに平家は大宰府を捨てて九州を離れることとなり、しばらく船で波間を漂う生活を強いられるのである。

その年の10月、豊前の柳ヶ浦にあった平清経は、月明かりの下、船縁で横笛を奏でた。「京都は源氏に攻め落とされ、大宰府も家人であった惟栄に追い落とされ、我々は網に掛かった魚のようなもの。どこへ行こうと逃れることは出来ない。もはや生き長らえることも叶わない」と観念した清経は、念仏を唱えて静かに入水したのである。権中将叙任からわずか半年、21歳の生涯であった。

清経が入水した場所は駅館川の沖合とされ、河口付近に墓と称する五輪塔がある。別名を小松塚。清経の父である重盛が小松殿と呼ばれていたことから名付けられたものであるとされる。

<用語解説>
◆柳ヶ浦の位置
清経の入水の地である柳ヶ浦は宇佐市としているが、安徳天皇の行宮・柳御所があったとされる、北九州市門司区大里も有力な比定地とされている。

◆緒方惟栄(惟義)
生没年不明。豊後の有力豪族。祖先が姥嶽の蛇神の子とされ、『平家物語』でも「畏ろしき者の末裔」と称されている。早くから反平家として九州にあり、源氏の九州侵攻で重要な役割を果たす。平家滅亡後は源義経に与し、西国へ落ち延びで再起を図るよう取りなしている。

アクセス:大分県宇佐市長洲