山口霊神 隠神刑部狸

【やまぐちれいしん いぬがみぎょうぶたぬき】

日本三大狸話の一つ『松山騒動八百八狸物語』は江戸末期に講談師によっておおよそのストーリーが出来た創作であるが、そこに登場する隠神刑部狸は、圧倒的な存在感によって全国的にその名を知られる化け狸となっている。

享保の飢饉のおり、松山藩は幕府から多額の金子を借りたが、城代家老の奥平久兵衛はそれを着服しようとお家乗っ取りを図る。しかし天智天皇の御代より伊予狸の総帥であり、松山城主より「刑部」の位階をもらう隠神刑部が城を守護しているのが邪魔になる。そこで久兵衛は、飛騨の山奥で山犬の乳で育った後藤小源太に八百八狸退治を頼む。最終的に隠神刑部は小源太と和睦し、「小源太が狸に危害を加えない替わりに、小源太が窮地の時は狸が助ける」という盟約を取り交わすことになった。

久兵衛は小源太を中老に取りたて、さらに城主の愛妾お紺の方を味方に引き入れ、城主を亡き者にしようとさまざまな手を打つ。松山藩は二つの派閥に分かれて抗争を繰り返し、隠神刑部らは小源太の味方をする盟約によって、城下で様々な怪異を起こし続けたのである。

不本意な味方をさせられる刑部狸は一計を案じて、藩主以下が参列する法要で久兵衛に大失態を演じさせるが、逆に化け狸の悪行と糾弾される。さらに打倒久兵衛派の山内与兵衛が藩主に直訴するが、お紺の方の讒言によってお手討ちになってしまう。

そのような時に松山城下に現れたのが、妖怪退治の豪傑・稲生武太夫。武太夫に敵に回られては一大事と、隠神刑部狸は雌狸を娘に化けさせて、武太夫の身の回りの世話をさせて動向を探らせる。そのうち娘と懇ろとなってしまう武太夫であったが、ある時娘の正体が狸であることがばれて激怒、これを機に反久兵衛の仲間に加わる。そして拝領の菊一文字を携え、山内与兵衛の霊が乗り移ったその剣で後藤小源太を討ち果たす。さらには宇佐八幡宮の神杖でもって隠神刑部狸の神通力を封じ込め、八百八狸を久万山の洞窟に閉じ込めてしまった。こうして、奥平久兵衛一派の悪計は頓挫したのである。

洞窟に閉じ込められた隠神刑部狸は、本来であれば成敗される身であったが、長年松山城の守護を果たしてきた功績に免じて祠を建てて祀られることとなった。これが現在の山口霊神であるとされる。

<用語解説> 
◆日本三大狸話
この『松山騒動八百八狸物語』の他に、群馬県館林の『分福茶釜』と千葉県木更津の『證誠寺の狸囃子』とされる。

◆松山騒動
講談ではお家乗っ取り騒動とされるが、実際には、松山藩内の権力闘争。享保17年(1732年)の大飢饉の翌年、5代藩主・定英死去直後に飢饉の際の失政(領民3500名餓死)を理由に現職の家老・奥平藤左衛門が閉門、目付の山内与右衛門が切腹となる。換わって家老に復職した奥平久兵衛が権勢を誇る。事実上の政変であった。しかし寛保元年(1741年)の久万山農民騒動が起こり、久万山地区の農民3000人が隣藩へ逃散する騒ぎとなる。これによって久兵衛は失脚・遠島となり、再び藤左衛門らが復権する。
この政争のターニングポイントに出てくる久万山は、隠神刑部狸の本拠地でもあり、ある種の符丁を覚えるところである。

◆稲生武太夫(平太郎)
1735-1803。三次藩士の子(三次藩は1720年に既に廃藩。武太夫が生まれた頃は広島藩浅野家が郡代を置いていた)。寛延2年(1749年)に比熊山に登り、その後1ヶ月に渡り怪異に見舞われる。その時の体験が『稲生物怪録』として世に伝わる。記録によると、成人後に広島城下に移転し、死ぬまで浅野家の家臣であったとされている。

アクセス:愛媛県松山市久谷町