恋の水神社

【こいのみずじんじゃ】

“恋の水”という変わった名前を持つが、その名の由来には熱烈な愛にまつわる話は残されていない。

第19代・允恭天皇の御代、東方に霊泉ありとの大神神社の神託があり、藤原仲興という者を熱田神宮に使いにやった。熱田神宮のお告げによりさらに南に進み、ようやく神水を発見した。仲興は土地の者に地名を聞くが、誰も知らぬと答えたので、知らぬ沢と名付けた。そして「尾張なる 野間の知らぬ沢 踏み分けて 君が恋しし 水を汲むかな」という歌を詠んだ。このことにより、この水は“恋の水”と呼ばれるようになったのである。

その後、天平4年(732年)に聖武天皇の后・光明皇后が病に倒れた時にこの水を求め、后の病気が快癒したとも言われる。それ故に、この恋の水は万病に効く神水として知られるようになった。

さらに時代が下って、桜町大納言成範の娘・桜姫は、家臣の青町と恋に落ち、家を追い出される。二人は北山に居を構えて慎ましく暮らしていたが、やがて青町は不治の病に冒される。桜姫は夫を救うために恋の水を求めて旅立ち、野間の地に辿り着く。そして土地の者に恋の水の場所を尋ねるが、その者は「あと三十五里ある」と嘘をついた。しかし桜姫はその言を真に受け、そのあまりの遠さに嘆き、その場で悶死してしまったという。恋の水神社の北、200mばかりの場所に桜姫の墓があるという。

恋の水神社は、その「恋」の名前と桜姫の伝説に基づき、今では縁結びの神として知られる。実際、かなり辺鄙な場所にも拘わらず、複数のカップルが訪れて祈願をしていた。

<用語解説>
◆桜町成範
1135-1187。保元の乱で活躍した藤原信西の三男。伝説では大納言とあるが、実際の官位は中納言。藤原姓であるが、自邸に桜を多く植えていたことから「桜町」と呼ばれる。娘には、高倉天皇の寵愛を受けたために平清盛の逆鱗に触れ、出家させられた小督がいる。

アクセス:愛知県知多郡美浜町奥田中白沢