日輪寺

【にちりんじ】

今でこそ、大手町にある平将門の首塚は塚の碑だけが残っている状態なのだが、以前はその塚に隣接する形で神社と寺院があった。神社は言うまでもなく【神田明神】である。そして寺院の方は【神田山日輪寺】という。

嘉元3年(1305年)、時宗の真教上人が首塚の地を訪れた時には、塚は荒れ果て、周辺には将門の祟りが原因と言われる疫病が流行っていた。そこで上人は“蓮阿弥陀仏”の法号を与え、塚を修復して供養した。すると疫病は止み、上人もそばにあった日輪寺に留まることとなった。さらに上人は近くの神社を修復し、そこに将門の霊を合祀して神田明神としたのである。まさしくこの真教上人こそが、祟り神であった将門を鎮護の神へと変えた人物なのである。

その後、江戸幕府成立直後、神田明神は江戸の総鎮守社として現在の地に移転し、日輪寺も明暦3年(1657年)に現在の西浅草の地に移転した。神田明神がその後も将門と関係深くあったのに対し、日輪寺の方は本来の時宗の念仏道場として名が広まり、将門との直接の関係は薄れてしまったようである。

しかしこの寺には非常に貴重なものが残されている。真教上人は将門公供養のために“蓮阿弥陀仏”という法号を与えたが、徳治元年(1307年)にその法号の直筆を石塔婆に刻ませたのである(これによって上人は塚を修復し、祟りもおさまったらしい)。この石塔婆が現在もこの寺に置かれているのである。しかも、 現在大手町にある首塚に置かれている石塔婆は、この日輪寺の石塔婆に刻まれた真教上人の書を拓本して作られたのである。首塚のシンボルのオリジナルということで、貴重なものであると言えるだろう。

<用語解説>
◆他阿真教
1237-1319。時宗の僧。開祖一編の死後、一時解散した団体を再編して遊行をおこなう。実質的に時宗教団の開設者とみなされている。この日輪寺における行動も、遊行の中でおこなわれたものである。

アクセス:東京都台東区西浅草