平重衡とらわれの松跡
【たいらのしげひらとらわれのまつあと】
山陽電鉄・須磨寺駅を出ると、すぐ目の前に小さな石碑と祠がある。かつてここに大きな松の木があり、平重衡とらわれの松と呼ばれていた。
平重衡は平清盛の五男。明朗な性格であり、その容姿は牡丹の花と喩えられるほどであり、まさに平家の公達の典型と言うべき人物である。
一方で武将としても並々ならぬ力量を見せている。以仁王の挙兵に対して主将として参戦して鎮圧。そして有名な南都焼き討ち。墨俣川の戦いでは主将として源行家軍を撃破。水島の戦い・室山の戦いでは木曽義仲勢を追い落として勢力を回復させている。対源氏の戦いでは無敗を誇る活躍を見せている。そして迎えたのが一の谷の戦いであった。
兄の知盛の副将として生田の森に陣取っていたが、源義経の奇襲で総崩れとなった。陣を離れた重衡は乳母子の後藤兵衛盛長と共に西へ逃れようとし、それを梶原景季と庄高家が追いすがる。だが重衡主従の馬は名馬であり、追いつきようがない。そこで景季が遠矢を放つと、それが重衡の馬の尻に命中した。ところが、替え馬に乗っていた後藤盛長は、重衡を置き去りにしてそのまま馬に乗って西へ逃走してしまったのである。取り残された重衡は、入水しようとしたが浅瀬のために果たせず、鎧を脱ぎ捨てて自刃しようとした。その時、庄高家が重衡に追いつき、生け捕りにしたのである。
虜囚となった重衡は、その身に起こった不幸を嘆きつつ松の木のたもとにあった。憐れに思った村人は、重衡に名物の濁り酒を勧めた。すると重衡は「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまで飲むこそ 濁酒なれ」と一首詠んだという。
生涯初の敗戦で生け捕られた重衡は、後に鎌倉に送られるが、南都焼き討ちの一件で南都僧兵に引き渡され斬首となっている。
<用語解説>
◆南都焼き討ち
治承4年(1180年)に、平氏政権に対抗する興福寺衆徒を鎮圧するが、その時に放たれた火によって興福寺や東大寺が全焼。多くの僧が焼死し、東大寺の大仏が焼け落ちた事件。平家の非道の中でも最たるものとして非難され、主将であった平重衡は南都僧兵の憎悪の的となった。
しかし寺院を灰燼に帰する目的で火をつけたとはされず、暖を取るための火が延焼した失火説、あるいは近隣の民家を焼き払うだけの放火であったと推察されている。
◆後藤兵衛盛長
生没年不詳。『平家物語』によると、重衡を見捨てて逃亡した後、尾中の法橋の許に身を寄せていた。その後、訴訟のために京都に上った時、「三位中将(重衡)を見捨てた恥知らず」と多くの者に誹られたという。
(乳母子は、主人との結びつきが強い側近中の側近であり、命に替えても主人を守ることが当然とされていた)
アクセス:兵庫県神戸市須磨区須磨寺町