義仲寺

【ぎちゅうじ】

この寺はその名の通り、木曽義仲の慰霊のために庵が設けられたことから始まるとされる。

一旦は京都を占領して実権を握った木曽義仲であるが、源頼朝が派遣した源義経らの軍勢によって京都を追われ、本拠である木曽へ戻ろうとした矢先に、この寺の近くの粟津で討死する。それから年月を経て、ある尼僧が義仲の墓所のそばに庵を設けて、供養を続けた。人々はその見目麗しい容貌からその素姓を怪しんだが、尼は「我は名も無き女性」とのみ答えたという。しかしこの尼僧こそ、木曽義仲の愛妾であり、部将として粟津まで生死を共にした巴御前であった。そして尼僧の死後、この庵は無名庵、あるいは巴寺、木曽塚、木曽寺、義仲寺と呼ばれるようになった。

戦国時代には境内は荒廃したが、近江守護である佐々木氏(六角氏)によって再興。さらに時代が下って、貞享2年(1685年)にこの地を訪れたのが松尾芭蕉である。芭蕉はこの地をいたく気に入り、何度も足を運ぶことになる。そしてその死に際しての遺言「骸は木曽塚に送るべし」に従って、この義仲寺に葬られたのである。その後も幾度となく荒廃と再興を繰り返し、昭和42年(1967年)に国の史跡に指定され、現在に至る。

義仲寺の境内には、木曽義仲の墓と松尾芭蕉の墓が並んであり、また巴御前の墓とされる巴塚、同じく義仲の愛妾であった山吹御前の供養塚もある。こぢんまりとした境内であるが、木曽義仲と松尾芭蕉ゆかりのものが多数が置かれている。

<用語解説>
◆木曽義仲
1154-1184。河内源氏の一族。源頼朝とは従兄弟となる。木曽で育ち、反平家として挙兵すると、またたくうちに勝ち上がり京都を占領する。しかし京都での振る舞いが後白河法皇らの不興を買い、同族の源義経らによって追い落とされ、近江国粟津で討死する。

◆巴御前
生没年不詳。幼い頃から義仲に仕え、愛妾となる。部将としての活躍は『平家物語』や『源平盛衰記』のみであり、脚色された内容である確率が高い。義仲の死の直前に姿を消しているが、義仲が落ち延びさせたとされる。そのため合戦が終わった後も長らく生きており、生涯義仲の菩提を弔ったという伝説が残る。

◆松尾芭蕉
1644-1694。俳諧師。俳諧を芸術的な高みまで引き揚げ、確立させる。また全国各地を旅して、『奥の細道』などの紀行文を著す。なお義仲寺は訪れるだけでなく、句会も催している。

アクセス:滋賀県大津市馬場