照日観音
【てるひかんのん】
波佐見町の北東部にある湯無田郷周辺は、佐賀県と隣接している地域であるが、戦国時代にこの地を治めていたのは内海氏である。
内海氏は元は尾張国の知多あたりの小領主であったが、室町の頃に土地を追われ、たどり着いたのがこの波佐見の地であった。それ以来湯無田郷を中心とする数か村を大村氏から安堵され、臣従することとなった。そしてその6代目の当主となったのが山城守政通である。その頃、大村氏は武雄に勢力を持っていた後藤貴明と矛を交えていた。当然波佐見の内海氏はその戦の最前線として領地を死守することになる。だが永禄9年(1566年)に当主の政通は後藤貴明との戦で討死。その勢いで波佐見に侵攻してきた後藤勢を抑えたのは、政通の2人の子供、兄の政広と妹の照日であった。特に妹の照日は呪術を用いて敵を惑わして撃退したと記録されている。
その後も後藤勢の侵攻に対して照日姫はたびたび呪術を以て退けており、主である大村純忠の命によって後藤貴明に対して呪詛をおこなったともされる。実際に照日姫がどのような系統の呪術を使ったのかは明らかでないが、その効果は並々ならぬものがあったと推察できる。
そして照日姫の死後、土地の者はその呪術の能力から観音として祀った。それが現在、内海氏の居城であった内海城跡(正確には城郭は山の上にあり、居住地である屋形跡)の隣にある照日観音である。また照日姫が着用した腹巻(甲冑の一種)が後世に残され、子孫が模造した物が宮庫に収められているとのこと。
<用語解説>
◆大村氏
少なくとも鎌倉時代以降、現在の大村市周辺を領有していた名族。照日姫が存命であった時代の当主は、キリシタン大名で有名な12代の大村純忠である。大村氏は、後に豊臣秀吉の元に参じて所領安堵を受け、さらに関ヶ原の戦いでは東軍に属して大村藩を立て、移封されることなく幕末を迎えている。
◆後藤貴明
1534-1583。代々武雄の地を領有する後藤氏の当主。大村氏11代の純前の庶子として生まれるが、純前は既に有馬氏より養子(後の大村純忠)を貰っていたため、勢力のある有馬氏に憚って、実子である貴明を後藤氏の養子に出した。このことを貴明は怨みに思い、たびたび大村氏を攻めている。貴明はその後龍造寺氏に服従し、龍造寺隆信の三男・家信を養子として後藤氏を継がせ、家信以降は“武雄鍋島氏”として佐賀藩の重臣として幕末を迎える。
アクセス:長崎県東彼杵郡波佐見町湯無田郷